国際都市シンガポールで暮らすコンサルタントの異文化日記

アジアの玄関シンガポールに暮らして20年余。 海外就職→転職→日本(逆)駐在の波乱万丈を乗り越えてシンガポールに経営コンサルティング会社を設立。 異文化というAWAYでの戦いを日々楽しんでいる日本人女性経営者の異文化日記です。

アジア関連

シンガポールの中国語新聞、マレー語新聞の取材をいただきました

当社プライムビジネスコンサルタンシーとベクタースコアカード社の提携については、先日のストレーツタイムス紙以外の大手新聞社も関心を示して下さったようです。

シンガポールの中国語新聞、Lianhe Zaobaoには、記者会見当日の11月29日掲載されました。

また、12月5日にはマレー語新聞 Berita Harianの取材をいただき、翌日6日には写真入りで掲載されました。

残念ながら私は中国語もマレー語も全く読めませんので、ベクター社のスタッフに翻訳をお願いしております。

内容は先日の英語新聞ストレーツタイムス紙とほぼ同じですが、今回、「日本の中小・ベンチャー企業のシンガポール進出を支援する」という取り組みに対して、これだけ地元メディアが関心を寄せてくれているのが心強いと感じております。

それにしても英語、中国語、マレー語と大手新聞だけでもこれだけ多言語で発行されているのがシンガポール。
取材は全て英語でしたが、その発言がどのように訳されているのか・・・

シンガポールに16年も住んでいるのであれば、多少は中国語やマレー語も勉強しなければならないな、と反省した次第です。

中国語新聞 Lianhe Zaobao(2011年11月29日掲載)
Lianhe Zaobao - 29 Nov 2011



マレー語新聞 Berita Harian(2011年12月6日掲載)
Berita Harian - 6 Dec 2011







アウェイで戦う日本人として

最近、立て続けに学生さんに対して講演をする機会をいただきました。

先週は都内の大学のアントレプレナーゼミの研修旅行、そして今週は福岡の修学旅行の高校生でした。

その場で思いついたことだけを喋るわけにはいきませんので、それなりに準備をして伺います。
「海外で生きる日本人」「シンガポールで仕事をしている女性」という観点でご紹介いただいているわけですから、こうした立場から何を伝えれば良いのか、自分自身を振り返りながら取り組むことになります。

両校の先生方から求められたのは、「これからの日本人に求められることは」「海外で通用する国際人になるには」という視点からのメッセージでした。

私自身が果たして海外で通用しているのか国際人と名乗れるほどのものなのかは定かではありませんが、まがりなりにもシンガポールで16年暮らして、現地資本の会社で数少ない日本人として働いた後に起業して今に至っておりますので、日本国内で過ごしてきた若い方々に対して少しは目新しい視点でメッセージが送れるのではないかと思いお引き受けしました。

大学生と高校生ですから受け取り方も異なるでしょうが、海外で生きる日本人として必要な要素としてあげた点は「発信する力の重要性」そして「真のコミュニケーション力とは」という二点です。

異文化の中では、「わかってくれるだろう」という推測(または甘え)は通用せず、とにかく言葉で伝えていかなければならない。

相手が関心を示して歩み寄ってくれるのを待つのではなく、やりたいことがあるのなら自ら相手を探し、出かけて行って明確な言葉をもって伝えること。

異文化において、自らを理解してもらうための努力は最低限必要な努力であり、その先には当然Win-Winの関係が期待されなければならない、ということです。

それがなければ単なる独りよがりの自己主張でしかありません。

外国語は重要ではありますが、外国語下手を理由に相手から逃げていたのでは、海外に出ながらも所詮は日本人の中で右往左往して終わってしまうと思います。

発信力とはもちろん語学力や単に弁舌なめらかなことではありませんが、同時に言葉もまともに喋れない人間と真っ当なビジネスができるわけがないのですから、「アウェイで戦う」ことを覚悟した以上、相手の理解できる言語を習得することは基本であることも強調しました。

そして、「コミュニケーション能力」。

仕事の中で、日本から進出してくる企業のビジネスパートナーを探したり、投資家へのプレゼンテーションを代行したりということをしておりますが、その際に常々感じることは、「自分の伝えたいことと相手の知りたいことは同一ではない」という当たり前の事実。であれば、相手の立場に立って知りたいと思うことを想定し、それに対する答えを発信していかなければ伝わることも伝わらないと思います。

技術や製品の素晴らしさを語るのも結構ですが、代理店が知りたいことは「既存の製品に対する比較優位(つまり売れるか売れないか)」であり、投資家にとっては「投資金額に対するリターンの規模と時間軸(いつまでにどの程度儲かるか)」なのです。

そう言ってしまっては身も蓋もないでしょうが、ビジネスはビジネスですからそれが本音だと考えた方が良いでしょう。

もっと単純な例をあげれば、かつて進出をお手伝いした日本企業のクライアント様が日本から用意してきた英文名刺にはSales Department 2/Section 2とありました。

日本語を見ると営業二課第二チームとなっています。

その会社では国内営業が一課、海外営業が二課となっており、これまでは海外については代理店経由で販売をしていました。

このたび重要市場においては独資での進出をするということで、二課の中でそれを担当する第二チームが誕生したとのこと。

英訳は間違っていませんが、しかしこれでは外国人は何をやっている方なのか見当がつきません。
新しい相手に会うたびに、そんな社内事情を説明するのはナンセンスです。

今となっては笑い話なのですが、当時はSales Department 2と書かれた名刺を100枚持って来星されたので、急遽私がパソコンで「何をやっている人なのかわかる名刺」を作って、それを持ってビジネスパートナー候補企業を訪問をしたものです。今でもその会社の方とお会いするとこの話が出て苦笑されます。

また、海外ではその方がどこまでの決裁権を持っているのかが重要視されますので、人事上、管理職でなくても何らかのタイトルはあった方が良い、Project Leaderという表現ひとつを書き加えれば、相手にはそのプロジェクトの担当者、責任者であることが判明し、より深い話もできるでしょう。

こうしたことも異文化理解、アウェイで戦うためのルールの理解です。
しかし知識として覚えこむのではなく、「コミュニケーションを取るためには何をすべきか?」という原理原則を押さえておけば、おのずと対応策は浮かぶものです。

自己紹介ひとつをとっても、型通りの所属を述べるのではな、相手が知りたいことを先回りして捉え、それに対して自己紹介をしていくことが重要だと伝えました。

「なぜ今日、自分はここにいるか、何を伝えたいか、何を聞きたいか」という自分の期待を具体的に伝えておけば、相手もより焦点を絞った話ができるからです。

未来のアントレプレナーの皆さんには「アイディア(思いつき)→調査→仮説→検証」プロセスの繰り返しを死ぬほどやってください、ビジネスの案なんて100あってもモノになるのはごくわずか。そして、常に常にビジネスになりそうなものに関心を持って追いかけてください(その点私はもう中毒です!これを考えるとワクワクして寝付けません!)。どこでどんな人と出会ってもその縁を大切に。 どんな話にでもついていけるだけの教養の大切さなどをお話しました。

実際、欧米のビジネスマンと話していると、歴史や古典をちゃんと理解している方が多いです。

アントレプレナーゼミの学生さんとは、後半、それぞれのグループからシンガポールに根差したビジネス案のコンペが行われ、教授と共に審査員に加わりました。

クライアントの盲点を突いて事前に策を練るのがコンサルタントの仕事ですから、遠慮なく(容赦なく?)ビシバシとフィードバックさせていただきましたが、短期間で準備したにしてはどのグループも良い目の付けどころだと思いました。

発案する側に視点が傾き過ぎているのは、まだ仕方がないでしょう。
ビジネスとして成立させるには、市場への参入障壁やら優位性やら採算性やら、とにかく考えなければならないことが山とあります。

そして「予測できたリスクはもはやリスクではない」こと、「それを取りこんで練り直したプランは更に強いこと」などもお伝えしました。

私自身、まだまだ駆け出し経営者であり人様に語るような立場ではありませんが、いただいた機会は感謝して受け取り、そこで話すことのプレッシャーを自分の肥やしにもしていきたいと思います。

転んでもタダでは起きないことです(転んでいないけど・・・笑)。


そして、単純に・・・楽しかったよ、皆さん!!

次回はビジネスの場で会えると嬉しいですね。



レファレンスとは?〜個人情報保護の見地からその取扱いについての一考察〜

転職に限らず、まずほぼ無条件に相手を信頼するところから始まる日本人の感覚では考えにくいことですが、私が知る限り基本的に海外では「信頼に足る理由」が得られない段階では相手を疑うところから人間関係が始まります。

疑うというのが少々行き過ぎた表現であれば、「注意する」「警戒する」という程度でしょうか。

最近は転職が一般的になってきた日本でもそうでしょうが、海外または日本でも昔から中途採用が一般的であった外資系企業においては、採用までの過程に必ずレファレンス(Reference)と呼ばれる身元照会を行います。

これは、履歴書に書かれていた過去の在籍記録や退職理由に偽りがないか、人物的にはどのように評価されていたのか等を確認する、採用側にとっては重要な手続きです。

と同時に、見も知らずの社外の人間がかつての社員についてあれこれと問い合わせてくるのですから、そうした問い合わせを受ける側も慎重な対応をする必要があります。

先日、あるクライアントのオフィスで「レファレンスと個人情報の保護を両立させる方法」についてアドバイスを求められました。外資系企業勤めが長かった私にとっては正直、日本の大企業でこのようなプロシージャーが確立していないことは驚きでしたが、その後、折にふれ訊ねてみると、シンガポールにおいてはどちらの企業でもさほどしっかりと確立していないことがわかりました。

よくわからないからとりあえず上司に電話を渡す、などであればまだ良いのですが、上司や人事部の知らないところで、問われるままにその電話を受けた社員が個人としての見解を述べていたとしたら大問題です。

日本ではこれまで中途採用という形態が比較的少なかったこと、学歴、職歴などに虚偽の情報を載せるなどあり得ないという、当初から相手を信頼する文化があること。これらも日本人の良い面である「相手を信頼する」文化の一端であり、そうした中に長くいるとあまり意識せずともいられるのですが、多様な価値観が混在する海外ではひとつしっかりしたプロシージャーを作っておく必要があると実感した次第です。

ちなみに我々エグゼクティブサーチコンサルタントは、大学以上の学歴の卒業証明書は必ず現物を確認します。「卒業」か「中退」か、はたまた単に「聴講生」レベルの在籍か(ちなみに「聴講生」は学歴としてのカウントには入りません)。

社会に出て何年もたったキャリアのある人を前に、今更、大学で「学位を取ったかどうか」など私個人は大した意味を持たないと思っています。しかし、クライアントに代わって人物選考をする立場であることを自覚すれば、おのずとこうした確認作業に手を抜くことはできないわけです。この段階で学歴詐欺が見つかれば、それだけでも人物的な信頼を欠くことになります。当然、クライアントへの報告書にもその点が記載されてしまいます。

レファレンスについて一例をあげれば、私が過去に在籍していたシンガポールの会社では、以下の社内規約がありました。

1.電話を受けた者は相手の社名、所属部署、役職、名前、連絡先電話番号、問い合わせ目的を控えた後、「人事部よりお返事いたします」とだけ伝えて、電話を受けた社員は一切何も情報を渡さないこと。

2.人事部がその連絡先電話番号あてに電話し、相手がこうした問い合わせをするのに正当な立場にいる人間かどうかを判断した上で(虚偽の電話番号や不当な立場での問い合わせなどであれば、この段階でオミットされる)問い合わせ内容に対して答える。人事部としては、在籍期間、昇進の経緯、退職理由、退職日、自己都合退職か会社都合または懲戒免職であったのか、という点に対してのみ答える。

3.人物評価については、直属の上司から答える。

これ以外の対応をしてはならないという厳密な規定が設けられていました。
つまり、突然にかかってきた電話を受けた社員が具体的なコメントをすることは一切ありません。
また、これはシンガポール本社だけではなくグローバルな社内規定でした。

問い合わせ理由を具体的に聞き出し、基本的に転職の際のレファレンス以外の問い合わせは不当な問い合わせである可能性もあるとみなされ、通常以上に厳密な対応をしていました。勿論、警察や裁判所のような国家権力的立場からの問い合わせであれば別ですが、それであっても人事部→マネジメントという流れは変わらないものでした。

会社では様々な人間関係が発生します。優秀な社員ゆえに引き抜かれて転職した人物に妬みを持ったもと同僚がこのような電話に応対したらどういう結果になるでしょうか。最悪の場合、客観性に欠けた恣意的なコメントを発し、新たなキャリアに進もうとする元社員の行く手を不当に阻むことにもなりかねません。このようなことが後日発覚すれば、場合によっては辞めた社員から訴えられることもあり得るわけです。個人情報の不当な流出にもつながるのは言うまでもありません。

会社側のリスクマネジメントの見地からも、レファレンスに対してはしっかりと規定を設けておく必要があると思います。

と同時に、在籍しいつかは退職日を迎える社員各人も、後日こうしたレファレンスをされても困ることのないように在職中からプロフェッショナルな態度で日々を送ることが大切だと思います。

それさえ守れば、退職後も以前の会社の上司や同僚とも関係維持ができますし、様々なビジネスシーンでお互いに重要な人脈として存在し続けることができます。

コンプライアンスという概念は、こんなところにも見出すことができるのです。

花金はすでに過去のもの?

1月は22日から30日まで日本へ出張していました。

着いた夜は仕事絡みではない友人2人とのディナー。
私の大好きな隠れ家系(?)のフレンチに行きました。

極寒の上野公園をとぼとぼ歩いてたどり着いた上野桜木にある一軒家レストラン。かつては金曜の夜なんて前週からじゃないと予約はできない店だったのですが、なんと同じ金曜なのにお客さんは私たちともう1組だけ。

メニューも心なしかお値段安め。
ワインはボトルでしか頼めなかったのに、お手頃ハウスワインをグラスでいただけるようになっていました。

で、お次は知人の経営している銀座の飲み屋へ。
ちなみにおねえさんは居ないフツーの店です。
昔のおねえさん(知人)は居るけど・・・

どこのタクシースタンドにも30台ぐらいタクシーが並んでいます。

上野も銀座も、何よりも人が歩いていない!
知人の店は7丁目にあるので付近は高級クラブが乱立しているのですが、かつてはこの時間帯はそろそろ帰るお客さんを見送るホステスさんたちで賑わっていて、ちょっと別世界だったのですが、その数すらも激減。

ホステスさんが減ったのではなく、お客さんが減った結果でしょう。だから帰る客もぽつりぽつり・・・

「今は終電に間に合うように帰るのよ」
と知人。だからタクシーは深夜でも簡単に拾えるのだそうです。

雑誌には「今夜もおうちごはん」「彼を呼んで手作りディナー」その他、いかに家計を切り詰めるかのノウハウが満載。ファッション誌でも基本は「安カワ(安くて可愛い)」系ファッションの特集で、3千円のトップスとか5千円以下のワンピースとかの特集。

高級ファッション誌でも「安いけど高そうに見える服」だの・・・え〜い、往生際の悪い編集め!と思わず思ってしまいましたが、まあこれも読者層と経済環境を考慮しての苦肉の企画でしょう。

そして・・・遅ればせながら30代に入ってからようやく運転免許を取った我が弟。

「で、車なににするの〜?」
「いや、買わない」
「だって免許取ったでしょ」
「あれは写真付きの身分証代わり」
絶句・・・・・・・・・・・・・

身分証として使うために何十万も自動車教習所に払うことに経済合理性があるかどうか私には全く理解できないのですが、必要な時にはレンタカーがあるから良い、のだそうです。

う〜ん、消費性向は私が日本に居た時代と全く異なっています。

まあ、バブルで浮かれていた我々の世代と異なり、個々の価値観のもとで選択して節約しているならいいのですが。

何でもかんでも他人と競って上を目指していた競争世代と違うんですね。私が新卒で就職した頃なんて、大学の同期(女子3%の大学なのでほぼ全員が男子)なんて初年度夏のボーナス頭金にして皆、車買ってました・・・(泡・泡・泡)

質実剛健になったのならそれはそれで社会の成長なんでしょうが、それ以上に本当に景気が悪い、先行き暗い、デフレの嵐、昇給なしでボーナス減額、だからモノが買えない・・・のが現状のようでした。

三次会はお決まりの昭和通り沿いのデニーズ。
ここも大半の食事メニューが800円台。
企業努力してるな〜、とちょっと感心。

今回の滞在の極めつけは、TOSHIBAの1GBのノートブックPCが43,000円で買えてしまったこと。加えてポイントカードには7000円分のポイントがついて、しっかり免税手続きも取ったから、ここでも2000円少々バックされました。

ということは差し引き3万代で買えてしまったということ。

う〜ん、情勢の変化に文句を言わずにただひたすら企業努力で自らを合わせていく日本人の頑張りと従順さには頭が下がるけど。

これで本当にいいんだろうか・・・

かなり複雑な思いを重ねた滞在でした。

AsiaX読者の皆様、はじめまして。

AsiaX読者の皆様、はじめまして。
川村千秋です。

AsiaXさんの紙面ではすました顔して載っていますが、このブログを読んでいただくと結構川村は天然(ぼけ)炸裂したキャラであることがおわかりいただけると思います。(´∀`*)

元々書くことが好きで、加えてシンガポールで働く方々、働いてみようと思う方々にとってちょっとした情報源にでもなればと思いつつ書き綴ってきたブログがこんなメジャーな場所でご紹介されようとは・・・。w(゚o゚)w

内藤社長からお話をいただいた時には、「え〜っ!ちょっと待っててくださいよ。半オフレコ話(?)もあるんですから〜」がまず第一声。「一部訂正しますからその後掲載してくださいね」と言いつつ面倒くさくなって(失礼)あれよあれよと言う間にそのまま掲載の運びとなりました。

これからも世間様にご迷惑をかけない程度に(?)本音を好き勝手に綴ってまいりますので、どうぞ皆様楽しみにしていてくださいね。

コメント随時受け付けていますのでどうぞお気軽にお送りください。

では、皆様、良い一日を!



地球温暖化とシンガポール

前回の更新からなんと2ヶ月半が過ぎてしまいました。
ただいま猛反省中の私です。
言い訳になりますが、とにかくこの2ヶ月半は殺人的に忙しかったのです・・・

6月はお隣のマレーシア(クアラルンプール)とタイ(バンコク)に、そして先々週から先週半ばまで猛暑の東京に出張しておりました。

東京で訪問先に伺う度に「日本は暑いですね」と言って大笑いされたのですが、別に笑いを取るつもりはなく、本当にシンガポールと比べても東京の暑さは格別だったのです。

南国とは言ってもシンガポールは陽ざしこそ強いものの風が吹いていますし、夕暮れ時や早朝は本当に爽やかな風が吹きます。私のオフィスのあるラッフルズプレースは海に近いこともあって、夕暮れ時などは潮の香がすることもあるくらい。オフィスのある26階のバルコニーに出ると朝晩は涼しすぎるほどの風で、あの東京の蒸し蒸しした空気とは全く異なるのです。

省エネはこちらでも課題にはなっているものの、オフィス内は本当に「寒い」ほどエアコンが効いています。朝、出かけて帰ってくるまでスーツのジャケットを脱がない日も多いんですよ。

省エネについては最近こちらでも電車内の広告で政府が呼びかけていますが、シンガポール国民としては「削減といってももともと小国だし、それほどの影響力があるとも思えない」と考えている向きも多いようです。

ただ、先日、Singapore Business Federation(日本の経団連のような団体)の上の方が仰っていましたが、ここの空港はHUBなので24時間3つのターミナルから離発着がある。航空機の排出するCO2だけでもかなりの量なのだそうです。

ということでシンガポールも他国同様、地球温暖化に向けての取り組みは本気でやらなければならないとのこと。

ただ、以前読んだリー・クヮン・ユー回顧録(建国の父・リー・クヮン・ユー)には、建国の際、まず取り組んだのがオフィスの冷房だったと書いてありました。冷房が完備していないため、日中の仕事は効率が落ちていた周辺国を見て、彼はまず国中を冷房完備にしたとのこと。あれから40年余。シンガポールももう新興国ではなくなったということでしょうね。地球全体を視野に入れた経済活動を求められる時代に入ったということなのでしょう。

8月9日は建国記念日。
街中だけでなく住宅地にも国旗が目立つようになりました。
今年の首相のスピーチには環境問題も盛り込まれることでしょう。


私のキャリア半生記(動機編)

先日、ある資産運用セミナーに出席しました。
経済ジャーナリストの浅井隆さんという方による講演会でした。
資産運用といえるほどの資産はあるのか?と自問しつつも、こういう機会にはできるだけ出るようにしています。潤沢な資産など無いからこそ最初から効率的に貯める方法を学びたいからです。

初心者向けということでしたので実践的な運用ノウハウよりも、今の世界経済そして日本、シンガポール経済を歴史とデータで捉え危機意識を持たせるのを主眼としていらしたようで、その意味では良いきっかけを与えていただいたと思います。

シンガポールは今、不動産市場の異常な高騰に例を見るように経済が過熱しています。サブプライムローンの問題に端を発したアメリカ経済の先行き不透明感は話としてはあるものの、シンガポールにいる限りそれを実感を持って捉えるのはまだ先のようにも感じられます。

しかし、経済は景気サイクルの長短はあれど歴史的に長い目で見れば均衡を保つように出来ており、それであれば今の景気がこのまま長続きするのはあり得ない現象と言えるわけです。

歴史的に見ても100年前つまり20世紀への移行期にはパリ万博の好景気から第一次世界大戦、その後、大恐慌の時代が訪れ第二次世界大戦へと続いています。こうした時期に国家間のパワーシフトが起こるそうで、100年前はそれが英国から米国へ、現代に置き換えれば相手は中国になるとのこと。

また、今世紀、産業の原動力となっていた原油は今や統計上枯渇する時期が読めるまでになり、代替エネルギーの開発が急ピッチで行われています。同時に異常気候現象に影響される穀物相場の急変など、経済の前提条件が様々に変化する時代に入ってきています。先の読めない時代であると言うことでしょうか。

日本の国家負債は1千兆円を超え、雇用や社会保障制度の枠組みが崩壊し、頼ってきたものが頼れなくなってきているにも関わらず、まだ日本人は根拠のない自信と安心感の上に安住している。それを打破するために自分で情報を得よ、人生にリスクヘッジをかけよ、というのがメッセージでした。

そんなお話を聞いていて、12年前、シンガポールに来るきっかけを与えてくれたある日の出来事を思い出しました。

当時、33歳。仕事は面白いし結婚はまだ先でもいいかな、と思い、先々を考えて都内にマンションでも買おうかと思っていました。当時はこういう女性が増えていたらしく、大手の○○不動産が都内に1LDKの単身者用分譲マンションをあるブランド名で売り出した時でした。

JR目黒駅から徒歩10分の好立地の単身者用マンション。賃貸に比べ共有スペースも広く、内装も凝っていました。ベッドルームには小さめでしたが一人なら充分。女性をターゲットにしていると見えてセキュリティとキッチンは充実していました。

で、お値段。

当時の価格ですが、3500万円。手続きのコストやローン利子を入れればほぼ4000万の物件でした。当時も10万円近く家賃に払っていましたし、ボーナスでの増額返済もある。しかし...

「ローンは35年で組んでいただいて云々...」とニコニコ顔で説明する営業マンの顔をぼんやり眺めながら35年間この部屋のためにローンを払い続ける自分を想像しました。

35年後は私は既に68歳。多少の繰上げ返済が可能だとしても定年までは確実にローンはついてまわります。その後に残るのは築35年の1LDKマンションだけなわけです。

「なんかおかしくないか?」
大学卒業後、かれこれ10年働いているが家を買う頭金もたいして貯まっていない(それは自分も悪いのですが)。その後、30年以上も借金返済に明け暮れ、その後にこの程度のマンションしか手元に残らない人生って一体何なんだ...?

将来住むところがなくなると困るし、年齢が高くなると独身の女性は部屋を借りるのも難しくなるという話はそれなりに理解はできました。でも、地方に行けばいくらでも土地は余っているし、そもそも住まいなんてライフステージによって変化する単なる「入れ物」でしかないんじゃない? ライフステージに住まいを合わせるのが本来であって、なぜ人生を犠牲にしてまで住まいのために働かなければならないのか?

「仕事をする場でしかない東京の住まいは賃貸、休暇やまとまった時間を過ごすために長野に一軒屋を持っている。引退後は長野でゆっくり暮らす」と言っていた著名なジャーナリストの方がいました。アメリカに留学していた時にお世話になったファミリーも、家族構成の変化やライフスタイルの変化に応じて家をどんどん住み替えていました。土地・家=資産なんだろうか? 流動性が確保できている市況ならばそれでも良いが、市場が急落したら売るにも売れなくなる。35年ローンを払い終えた時に長野で引退したいと思っても、そのマンションが売れる保証はどこにもないと思いました。

その日を境に私はことある毎に日本の先行きを考えるようになりました。
その状況の変化が自分の人生にどのような影響を及ぼすかを真剣に考えました。


既に高齢化社会への予測は立っていましたし、国家財政は赤字でした。バブル崩壊後で金利はどんどん下がりしかし株式市場はそれに反応しない。税収が足りなくなれば元々積極運用はしない日本政府のこと、増税という手段でしか赤字を埋めることはできないだろうな、と。そうなればこれまで払ってきた年金など払った分すらも戻ってはこないな、と。

そのときの予想は約10年後、経済小説家・幸田真音さんの「日本国債」「代行返上」などの作品を読むと充分当たっていたことを知らされました。

何よりもこれだけ働いてきて、将来にわたりまともに家一軒買えない国にいることがおかしいことのように思えてきたのです。

私の海外就職は実はそこから始まりました。

(次回に続きます)

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もうひとつのお正月

今日からシンガポールはChinese New Year(旧正月)。

当地にいらっしゃらない方には耳慣れない言葉でしょう。
シンガポールの人口の7割以上は中華系民族(華人)。彼らのお正月は陰暦に沿ったお正月なので、毎年日が変わります。今年は2月7日、8日。9日と10日は土日にあたりますから、7日からの四連休になります。

シンガポールでは民族ごとにお正月があるのです。その中でもこの旧正月が一番国をあげてのお正月と言えるでしょう。

ちなみに1月1日はEnglish New Yearと呼んだりします。こちらはあっさりしていて、原則的に12月31日までは通常営業日ですし、一応、1日は祝日ですが2日からは通常業務。シンガポールに来た当初は何とも寂しかったですね。日本人にとっては年末に「行く年来る年」としんみり一年を振り返り、元旦は厳かな気分で迎えるのが通常ですから。

旧正月中はタクシーもまばらなほど、街中が静まり返ります。ファーストフード店も旧正月初日はまずお休み。2日目から時間を短縮して営業するところもありますが、その2日間はまともに買い物はできないと心得た方がいいでしょう。

思い出すのは12年前、初めてシンガポールで迎えた旧正月。
前日までに食料の買い置きをしていなかった私は2日間、パンとシリアル、フルーツで過ごしました。以来、旅行に出かけない旧正月はダイエット期間として胃を休めようと建設的(?)に考えることにしたのですが...それも旧正月明けにオフィス仲間とお祝いランチをしてお腹一杯いただくのであまり効果はなかったかも。

旧正月中はおめでたい赤を着る習慣があるので、私のクローゼットにも毎年1着づつ赤のドレスが増えていきました。

では、改めまして皆様、新年おめでとうございます。益々、良い1年となりますようお互いに頑張りましょうね。


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アジア人、そして時々日本人

先日、シンガポールにある日本の100円ショップに行ってきました オーチャードMRT(地下鉄)駅から2駅のドービーゴートの駅の真上にあるショッピングセンター・プラザシンガプーラに入っている日本のDAISOというお店です。

日本のDAISOのお店にいらした方は良くわかると思いますが、文具、洗剤、収納小物、衣類、化粧品、洗面用品、ガーデニングやペット用品まで、ありとあらゆる物が見つかるお店です。懐かしい日本のお菓子や調味料も揃っています。 ここでは100円ではなく2シンガポールドル(160円ぐらい)均一。一部除外品もあるようですが、9割以上がその値段で売られています。 

私がシンガポールで働き始めた1996年ごろは、シンガポールはまだ外国、それもアジア、という感じでした。 欧米の化粧品などは一流ブランドが日本より安く買えましたが、日本ならではのちょっとした生活小物類(油取り紙、収納便利グッズ、キッチン用品など)が手に入らず、日本へ帰国するたびに100円ショップで買い込んできたものでした。 ドアストッパーや消臭剤、粘着ロールの衣服クリーナーなど、親に「何でこんなものばかり買い込んでいくの?」と不思議がられたものですが、こうした「あれば便利」というグッズが乏しかったのです。

それが、今はなんと日本のその辺の100円ショップより品揃えがありそうなシンガポールのDAISO。表示も日本語のままですし、店員さんは「いらっしゃいませ〜」「ありがとございました〜」と、一瞬ここは日本かと思うほど。

シンガポールに住み始めた頃はどこか肩に力が入っていて、自分をローカル化することに必死でした。ローカルフードを食べ、ローカルTV番組を観て・・・ でも、数年経って感じたのは自分はやはり日本人。和食が恋しくもなれば日本のドラマもTVで観たい。ファッション雑誌はどうしても紀伊国屋へ行って日本の雑誌を買ってしまう。日本人の生活スタイルを引き摺って暮らすことに戸惑いがあった時期もありました。でも、今はこれでいいんだ、と割り切っています。

シンガポールは東西文化が混在している国際都市。それぞれのルーツを意識しながら、マイペースで無理なく生活していける場所です。 3食ローカルフードでもよし、朝はご飯に味噌汁、昼はローカルフードを食べ、夜はワインを楽しみながらイタリアンでもいいし、居酒屋で焼き鳥とサワーで一杯やっても良い。ここはどんな国籍、人種でも受け入れてくれる国際都市なのだから。

紀伊国屋では日本の本や雑誌がほとんど買えるし、日本の番組はケーブルTVやインターネットで観られます。日系スーパーに行けば日本のスーパーと変わらない品揃えで純和食も作れます。シンガポールスタイルで暮らすことに疲れたら、ちょっと日本人に戻ってみればよいのです。

自分のルーツを否定せずに無理せず暮らすこと。
これが海外生活を長続きさせるコツなのではないかと思います。


それにしても常夏のシンガポールでホッカイロは需要があるんだろうか?
日本語表示ばかりのDAISOで勘を頼りにたくましく買い物をしているシンガポール人。
う〜ん、華僑のサバイバル能力はやはりスゴイと脱帽でした。



☆☆お知らせ☆☆
当ブログの筆者が代表を務めるプライムサーチインターナショナルでは、1月に東京で「シンガポール就職相談会」を開催します。詳しくは、プライムサーチインターナショナルのホームページ、TOPページ「お知らせ」をご覧下さい。

「誰も行かないところには誰かがいかなければならない」

祝日であった10月8日、東京・乃木坂の青山葬儀所は静かな秋雨に包まれていました。

ミャンマー軍によって殺害された日本人ジャーナリスト、長井健司さんの葬儀が、APF通信社による社葬という形でしめやかに執り行われました。前日に知った私はどうしてもお花を手向けたくなって、帰省予定を変更して静岡の実家から早朝、新幹線で駆けつけました。

報道陣が詰め掛ける中、オレンジ色の袈裟を着たミャンマーのお坊さん、ロンジーという腰巻風の民族衣装に身を包んだ在日ミャンマー人の多くの方々が多数参列していました。

定刻11時に到着したのに祭壇のあるメイン会場は満席。予備会場に通され、その後、メイン会場に移動を促されたのですが、なんとこれが前から2列目。隅っこでひっそり参列するつもりだった私は黒のTシャツにジーンズという極めてカジュアルな格好で喪服姿の参列者の中で浮きまくりました(汗)。

すぐ前には弔辞を述べるジャーナリストの鳥越俊太郎さんや田丸美寿々さん、ニュースキャスターの村尾信尚さんやパレスチナやミャンマーで長井さんと取材活動をしたというフォトグラファーの嘉納愛夏さんがお座りでした(「これは夕方のニュースに映っちゃうな〜」と赤面)。

祭壇は白菊だけでなく、明るい色の胡蝶蘭やデンファレで埋め尽くされ、南国で息を引き取った故人を偲ぶかのようでした。遺影の長井さんははにかんだような表情。「僕は撮る側の人間であって撮られる側の人間じゃないよ」とでも言いそうに。

APF通信社の山路徹代表が葬儀委員長を務めていました。
かつては長井さんと一緒に紛争地帯の取材を飛び回った仲であったそうです。
現地で遺体に真っ先に対面した山路氏は、「長井さん、貴方の右手は最期までビデオカメラのグリップを握ったまま、そのままの形で硬直していました」と語りました。死んでもカメラを放さなかったそのジャーナリスト魂に心からの尊敬を示され、「私たちはこの辛い現状を乗り越え、必ずその真実を伝えるために前に進んで行かなくてはならない」と締めくくられました。「誰も行かないところには誰かが行かなくてはならない」それが長井さんの口癖であったとも。最近、50歳を迎えた長井さん。「50にもなれば普通は現場を離れて管理の方向に行く。でも、長井さん貴方は死ぬまで現場で取材を続けたいと言っていましたよね」と。

田丸さんは例の穏やかな声で、「長井さん、おかえりなさい」と弔辞を始め、「以前、私の番組でタイのエイズ孤児院の報道をお願いしましたね。長井さんは子供の体調が悪い時には遠くからひっそりと撮影し、体調の良い時は至近距離で話しかけながら撮影するという気配りのできた方でした」と語られました。

ともすればジャーナリズムの名の下に土足で取材対象に踏み込んでいくジャーナリストの多い中で、そのエピソードは長井さんの人柄を示す印象的な一言でした。

私は式の間中、ずっと長井さんの遺影を見つめていました。
この人の報道のおかげで平和な日本にいながら多くの世界の現状を知ることができたことに感謝しました。そして、「無念だったでしょうね。もっと撮りたかったでしょうね、もっと世界の現状を多くの人に知らせたかったでしょうね」と思うと涙が出てきて止まりませんでした。

覗き見趣味的なテレビ番組に辟易していた私は、既に日本には真のジャーナリズムは無いと思っていました。しかし、まだこういう日本人ジャーナリストがいたんだと思うと、どこか救われた思いもしました。

在日ミャンマー協会の方は、たどたどしい日本語で「長井さん、今、貴方は銃弾に倒れましたけれど、ミャンマーの民主化が実現したその時には長井さんはミャンマーの英雄になります」と遺影に向かって語られました。

文民、それもジャーナリストを軍が射殺して国際世論が黙っているとは思いません。
当初、流れ弾に当たったなどというふざけたコメントを出したことも強く非難されることでしょう。何よりもあの失われた最後のテープ。それが多くの真実を語ることに間違いはないでしょう。日本政府は長井さんの死を重く受け止め、即座にミャンマーに対して毅然とした主張と要求をすべきだと思います。

焼香を済ませ、会場出口で山路代表とご両親にご挨拶しました。お父様は車椅子に座っておいででした。「以前、仕事でミャンマーをよく訪れていた者です。本日は旅先から駆けつけましたのでこのような格好で申し訳ございません」と山路代表に言うと、「いえ、とんでもございません」とご丁寧にお返事されました。事件から10日あまり。ほとんど寝てないだろうなと思うほどやつれていらっしゃいましたが、テレビで聞く通りの落ち着いた思慮深い声の方でした。

最後に長井さんのお顔を見る機会をいただきました。
白菊を棺にそっと入れ、お顔を覗き込むとそれは穏やかな表情で眠られていました。

出棺の時、流れた曲はジョン・レノンの「イマジン」。
あまりにもふさわしい曲でしたね。
You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one...

そう、それは長井さん一人ではないはず。
国も国境も越えて人類がひとつになることを夢見るのは。

長井健司さん。
貴方という方にこうして出会えたことに感謝します。

長井さん、貴方は決して死んでなんかいないでしょう。
今もビデオカメラを握り締めて、世界のどこかを飛び回っておられることと思います。

かつてよく訪れていたミャンマー。
あの時の平和な静けさは実は抑圧された静けさであったのかもしれません。
軍政権の恐怖政治と抑圧から解放され、真の笑顔がミャンマーに戻る日まで、私たちは長井さんの死を忘れずに生きていきたいと思います。

長井さん近影

ミャンマーに寄せる思い

ミャンマーの首都ヤンゴンで取材中だったジャーナリスト長井さんが軍によって射殺されました。最期までビデオカメラを離さずに息を引き取ったその姿に不屈のジャーナリスト魂を感じた人は多かったことでしょう。

シンガポールで最初に勤めた医療サービス会社で、私はアジア太平洋地区のマーケティングを担当していました。医療水準の低い国で在留外国人への医療サービスを提供する会社でしたから、当然、出張先は「生水の飲めない国」ばかり。ミャンマーにも10回近く訪れたことがあります。

ヤンゴン市内のインヤレイクという静かな湖のほとりにあるインヤレイクホテル(当時の名前)の敷地内に勤務先が直営するクリニックがありました。ここで欧米人医師とミャンマー人医師が協力して企業会員の駐在員に対して欧米諸国水準の医療を提供するのが事業内容でした。

出張は2泊3日程度の短いものが中心でしたが、一度、出張中にJICAのミッションの方々がお越しになるとのことで1週間以上滞在したことがあります。夕方6時ごろに仕事が終わると長い夜が始まります。インヤレイクホテルに滞在していましたから、クリニックからわずか2分で部屋に戻れてしまい、そこからはNHK衛星を見るしか過ごし方がないのです(それも2時間時差なので夜10時には終了)。

街中で英語は通じないし、公道からかなり深く入った森の中にホテルがあったので容易に外に出ることもできず、全くの軟禁状態(あの勇気ある女性と同じ環境に身を置けたことはある意味光栄?)。そこで、思い切ってホテルにガイドとリムジン(といっても普通車)を用意してもらい、夕方からヤンゴン市内観光に出掛けました。1998年のことです。ガイド料と車代で25ドルでした。ミャンマーの物価から言えば大変贅沢な値段になります。

政府からの許可証を胸につけた28歳の青年がガイドとして迎えに来ました。
まず、向かったのはスーレーパゴタ。長井さんも死の前日に撮影された場所です。夕方のヤンゴンは帰宅途中の人で混んでいましたが、それでも日本や周辺諸国に比べればのんびりとしたもの。車もそれほど多くはありませんでした。

スーレーパゴタは市内の中心にあり、仏教徒が大半を占めるヤンゴン市民の心の拠り所といった存在。入り口で靴を脱ぎ、建物内に入ります。仏像のある建物を取り巻くように回廊があり、パゴタでは必ず時計と逆周りに回らなくてはならないそうです。足元をヤモリがたくさんチョロチョロしていましたが、不思議と気にならなかったのはその荘厳で神聖な雰囲気に圧倒されたからでしょうか。

印象的だったのは、帰宅途中の家族連れ、恋人同士が静かに祈りを捧げていたこと。
両親の横にちょこんと子供も座り、静かに仏像に向かって拝んでいたのが心に残りました。決して豊かとは言えない日常生活の中で、仏に、自分の心に向き合うゆとりを持って生活しているミャンマーの人達。物質文明に囲まれた先進国で忘れてしまっている謙虚で清貧な生活。仏教徒ではない私も、思わずひざまずき手を合わせてしまいました。

その後、ガイド君は湖に浮かぶ客船に案内してくれました。レストランになっているそうなのですが、なぜかこの日はお休み。ということで、わざわざ車を降りて定休日のレストランの外側を観に行ったというちょっとおマヌケな展開。

今から10年近く前ではありますが、首都ヤンゴンと言っても電力供給が充分でなく、街全体が薄暗かったことが印象的でした。

正直、あまり観光するスポットは無かったヤンゴン。しかし、一生懸命、英語でミャンマーの歴史を含めて説明してくれるガイド君の姿が思い出に残った数時間でした。

最後に「これチップだから受け取って」と10ドル札を差し出した私に、ガイド君は「お金は規定料金を貰っています。だからこれは受け取れない」と固辞。「いいじゃない、感謝の気持ちなんだから」と言うと、「僕は政府公認のガイドです。これを受け取るのは倫理規定に反します」。

ともすればチップをねだってくる国にばかり出張していた私にとってはちょっとショックにも近い感動を覚えました。

もっと勉強して優秀なガイドになる。ガイドの仕事ぶりで外国人客はミャンマーを理解してくれるかどうかが分かれる。だから、この仕事に誇りを持っている。日本人のお客さんが増えたら日本語も勉強したい。そんなことを熱く語ってくれました。

あれから9年。今、彼はどうしているだろうか、と長井さん関連の報道番組を見ながら思いました。愛国心に満ちた彼のことであるから、もしかして民主化運動に早々と身を投じているかもしれません。生きていて欲しい、そしてあの静かで穏やかなミャンマーに日本人のお客さんが多く訪れて、その前で誇らしげにガイドをしている彼が見たいと思いました。

寺院からのお経の響きと藍色に染まった空に浮かぶ月。祈りを捧げる家族連れ。素足にひんやりと伝わるスーレーパゴタの石の床。

長井さんの死でミャンマーという国に対して日本人の目が初めて向いたのではないかと思います。平穏に見えて実は軍事政権で自由と人権を取り上げられた国、ミャンマー。どの取材先においても平和を欲する人々をカメラで追い続けた長井さんは、その死を持ってこの国の平和運動を推進させる貢献をなさったのではないかと思います。

丁度、日本の実家に戻ってきていたこの週末、明日8日に青山葬儀所でお葬式があることを知りました。三連休を実家で過ごそうと思っていましたが、明日の朝、上京し参列することにしました。その後は北品川のミャンマー大使館前での民主化の呼びかけに参加しようと思います。

ミャンマーのために。そしてあのガイド君の将来のために。


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