国際都市シンガポールで暮らすコンサルタントの異文化日記

アジアの玄関シンガポールに暮らして20年余。 海外就職→転職→日本(逆)駐在の波乱万丈を乗り越えてシンガポールに経営コンサルティング会社を設立。 異文化というAWAYでの戦いを日々楽しんでいる日本人女性経営者の異文化日記です。

シンガポール関連

シンガポールの中国語新聞、マレー語新聞の取材をいただきました

当社プライムビジネスコンサルタンシーとベクタースコアカード社の提携については、先日のストレーツタイムス紙以外の大手新聞社も関心を示して下さったようです。

シンガポールの中国語新聞、Lianhe Zaobaoには、記者会見当日の11月29日掲載されました。

また、12月5日にはマレー語新聞 Berita Harianの取材をいただき、翌日6日には写真入りで掲載されました。

残念ながら私は中国語もマレー語も全く読めませんので、ベクター社のスタッフに翻訳をお願いしております。

内容は先日の英語新聞ストレーツタイムス紙とほぼ同じですが、今回、「日本の中小・ベンチャー企業のシンガポール進出を支援する」という取り組みに対して、これだけ地元メディアが関心を寄せてくれているのが心強いと感じております。

それにしても英語、中国語、マレー語と大手新聞だけでもこれだけ多言語で発行されているのがシンガポール。
取材は全て英語でしたが、その発言がどのように訳されているのか・・・

シンガポールに16年も住んでいるのであれば、多少は中国語やマレー語も勉強しなければならないな、と反省した次第です。

中国語新聞 Lianhe Zaobao(2011年11月29日掲載)
Lianhe Zaobao - 29 Nov 2011



マレー語新聞 Berita Harian(2011年12月6日掲載)
Berita Harian - 6 Dec 2011







シンガポール政府観光局に取材いただきました

新年あけましておめでとうございます。

気付くと1月ももう半ば。
新年あけまして・・・ではないですよね(笑)。

シンガポールの新年の祝日は元旦のみですから、今年のように週末にかかってしまった場合は本当に「いつも通りの週末」でした。

それでも自宅の大掃除がしたくて大晦日はお休みし、元旦の土曜日は午後から出社しておりました。

年末年始はフライトが混むし、実家への帰省は出張時にしておりますので、この15年間この時期に帰国したことはまずありません。それはそれでまたリラックスした良いお正月でした。

さて、12月にシンガポール政府観光局より取材依頼がきて、メールマガジン「マイ・シンガポール〜シンガポールの達人に聞く〜」に掲載されました。

「マイ・シンガポール」シンガポール政府観光局メールマガジン

こうしてみると改めて私はシンガポールが好きなんだなぁ、と思います。

今年は年女!
文字通り「飛躍の年」にしたいと思っております。

本年もよろしくお願い申し上げます。


川村千秋

快進撃を続ける日本企業 〜WineForAsia2010 Gala Dinnerの夕べ〜

10月は7日から12日まで4年ぶりにドバイに行ってまいりました。
中東では金曜土曜が週末ですので日曜からは仕事でしたが、到着日と翌日は久々に仕事を忘れて休暇を楽しみました。

地上124階の世界最高のビル、バージュハリファに登ったり、1200店舗が入るThe Dubai Mallでショッピングを楽しんだり、夜はクルーズ船でディナーを楽しんだり・・・写真も沢山撮りました。が、ドバイのお話は次回のブログでご紹介するとして、今日は暗中模索の日本経済を尻目に快進撃を続ける日本のベンチャー企業のお話をしたいと思います。

シンガポール進出を足場にして世界へ羽ばたこうとするベンチャー企業は数あれど、掛け声だけが先行している雰囲気も感じられます。そんな中、着実にシンガポール進出を事業化し、周辺国も含めた次の一手を打ち始めた日本企業をご紹介しましょう。

当社のクライアントでもあるトレードショーオーガナイザーズ株式会社。30代の社長が率いる若い会社ですが、産業展示会の開催件数ではすでに日本のトップクラス。このご時世の日本経済の中、飛躍的に継続成長を実現している企業です。

前回のブログでもご紹介しましたが、このたびシンガポールの大手イベントプロデュース企業グループであるPICO Group傘下にあるMP International Pte Ltdと合弁会社を設立されました。来年からはシンガポールをはじめとする周辺国で来年からOishii JAPANというブランド名で日本食の総合展示会の開催を予定しています。

当社はこのJV設立に際して包括的なビジネスコンサルを提供させていただき、まさに、クライアントと共に成長させていただくコンサルタントとしての醍醐味を味わわせていただきました。契約締結までのプロセスに細かくコンサルタントとして関与し、JV設立決定後はマーケティング展開、基幹職人材の紹介・・・この数か月はこれらの仕事で本当に忙しかったのですが、多くのことを勉強させていただきました。

日本の会社でありながら日本に居続けることに拘らず、文字通りベストプラクティスをグローバルベースで実践する。夢を語ることは誰にもできますが、それを着々と形に、それもマーケット動向を見ながら極めて短期間で成し遂げる企業はそう多くはありません。

真のベンチャー企業の強さを体感する毎日でした。

2月にシンガポールで社長、経営陣にお会いし、4月下旬には既にJV設立を決定。そこからは契約内容の詰めや事業計画の協議など、私自身まさしく当事者になったつもりで共に走り続けた思いでした。だからこそ、8月に東京ビッグサイトで行われたJVの調印式では、その瞬間ちょっと涙腺が緩くなったりもして・・・。

社長以下、社員の方々が本当に真面目で良く働く。経営トップはトップとしてのビジョンをしっかり持っている方ですし、ご自身がよく勉強されていますので、問い合わせてくる内容も実に具体的。生半可な対応では太刀打ちできませんから、そのたびに私も緊張感を持ってお答えしました。

今週はシンガポール側パートナーであるMP Internationalが毎年主催しているWine For Asia 2010 がマリーナベイサンズで開催されていますが、その中に特設会場として「酒・焼酎パビリオン」を設営し、海外進出を願う酒造メーカーを率いて早くも来年の足場固めをされています。

来年は10月にサンテックシティにてOishiiJAPANを開催。
既にJETRO、日本大使館をはじめシンガポール政府側からも応援の声があがっており、閉塞感ただよう日本市場からの脱出を願う食品・飲料・調理機材・飲食・FC業界各社にとって、大きなスプリングボードになると期待しています。

WineForAsia2010開催前夜であった昨晩は、Conrad Centennial のボールルームにてGala Dinnerが開かれました。MP International のCEOシルビア・プアさんから直々にお電話でご招待をいただき、ワインどころかアルコールはほとんど飲めないワタクシですが、大変光栄なことですので恐縮しつつも出席させていただきました。私自身のクライアントも数名ご招待させていただき、美味しいワインとコース料理を楽しみながらネットワーキングの機会もご提供させていただきました。開会のご挨拶


アジアで唯一の総合ワイン展示会であり、毎年、Wine Style Asia Awardという名で受賞ワインが選定されるとのこと。まさに世界中のワイナリーから出展者が集まっており、ハープの生演奏の中、フランスのワインコンサルタントによるレクチャーや醸造過程の紹介ビデオなど、私もほんの少しワインの奥深さを垣間見た思いでした。


開場前のカクテルでは、出展ワインが何十本(100本超えていたかも)が並べられ、「ご自由にご試飲ください」とのこと。ワインを水のごとく嗜めるワイン・ラバーの友人数名の顔が脳裏に・・・ウラヤマシイ。そもそも私は飲めない体質なのです(涙)。CEOのシルビアさん(中央)と受賞者の方々

それにしても、私が来星した14年前はワインなんてホテルのレストランにでもいかなければまともに飲めなかったのに、ホント、シンガポールのライフスタイルの進化のスピードはすごいですね。

ひとつの仕事を通じてまた新たな人やビジネスとの出会いをいただく。

社長からシンガポール側関係者に「当社のコンサルタント」ではなく「ビジネスパートナー」とご紹介をいただいたその言葉の重みをしっかり受け止めて、これからも日本からの進出企業を精一杯応援させていたただきたいと思いました。トレードショーオーガナイザーズの佐々木社長、西田常務と共に


WineForAsia2010は本来バイヤーを対象としたBtoBの展示会ですが、最終日の夕方からは一般公開されます。ご興味のある方は是非ご来場ください(入場無料)。

日時: 10月29日(金)午後6時半〜9時半
会場: Sands Expo & Convention Centre, Hall E, Basement 2

オフィス移転、そしてこの2ヶ月間のこと

大変ご無沙汰しておりました。

気付いてみたら、3か月近くもブログ更新をしていなかったのですね・・・

この2ヶ月間は当社にとりまして2つの大きなプロジェクトが進行し、大忙しの2か月でした。

まず、7月にオフィスを移転しました。
サービスオフィスも便利で良いのですが、部屋は狭いですし、週末や時間外の会議室利用に制限があることなどを考え、思い切って外で独立したユニットを借りることにしました。

5月末から物件を探して丸1か月。合計21件を下見し、家主と交渉に次ぐ交渉のバトルをくぐり抜け(笑)、ようやく決まったのが今のNeil Roadにあるショップハウススタイルのオフィスです。正確にはNeil Roadから少し私道を入った場所にありますので静かで、ショップハウスと言っても既に建物全てがオフィスに仕様変更されておりますので快適です。

ショップハウスという建物は、ペラナカン文化でよく見られる建築スタイルで、かつては1階が店舗、2階以上が住居として使われていました。今でもその通りに使っている場合もありますが、ここチャイナタウンとタンジョンパガーに挟まれたエリアでは、既に多くがオフィスに改装されています。

かつてはNeil RoadやDuxton Roadには飲食店が入ったショップハウスが多かったのですが、この地区の再開発計画が進むにつれて飲食店が退出し、オフィスになるというケースが増えています。後、1年ほどしたら大半がオフィスに変わってしまうのではないかと思いますね。

当社がこのたび借りた物件も、他のテナントは建築事務所、メディアデザイン、投資顧問、写真スタジオなどで占められています。

歴史的建造物として保護指定されていますので、外側を改装することは許されませんが、中は自由に改装できます。当社の物件も借りた時は天井、壁、床、全てコンクリートむき出しでしたので、デザイナーさんに頼んで一から設計していただきました。

Keppel Bay画像 354


大きな天窓がありますので昼間でも明るく、エアコンもユニットごとにありますので調整可能(オフィスビル勤務時はエアコンの効きすぎで苦労しました)。

私の個室はガラスで区切り、家具は圧迫感の内容に白で統一。
照明にもちょっとこだわりました。

画像 443

設計は1週間で終わり、そこから工事。これが実際には3週間以上かかりましたね。話では1週間半などと言われていたのですが(ありがちな話です・・・笑)。

その後、電話、FAX、インターネット、セキュリティロック・・・
そして家具を選んで、コーヒーメーカーや冷蔵庫も選んで・・・全て予算とにらめっこですので大変でした。

会社員の頃にもオフィスの改装は二度ほど経験しましたが、あの時は自分のチームの座る位置のレイアウトを話し合うぐらいで、後は総務担当者任せ。予算も「勝手にどこかから出てくる」ぐらいの感覚でいられたものでしたが、今回は全て自分からです。総工費は想像以上でしたので、途中何度か交渉して(というより拝み倒して)単純にまけてもらったり、材料をダウングレードしたりして調整しました。それでも当初の想定より1万ドルは余分にかかってしまいました・・・(冷汗)。
本当に大丈夫なんだろうか・・・と不安にかられた時もありましたが、とにかく入ってきた仕事をどんどんこなすことで何とかなりました。

7月末にようやく完成。
今度は月極め駐車場探しで苦労・・・オフィスビルと違って周辺のビルの駐車場に入れるしかないので、これも11件回って1か月ウェイティングリストに載って粘ってようやく見つけました。

8月は、シンガポール企業とこのたび合弁会社を設立された当社のクライアント様の大規模な展示会が東京で行われ、同時に会社設立のお披露目と記者会見も開かれましたので、それに合わせて出張。合弁事業の分厚い契約書を真夜中までレビューし、趣旨をまとめ、クライアントや弁護士さんと協議を重ねた結果の会社設立でした。

東京ビッグサイトの展示会期中に、在日シンガポール大使代理、シンガポール政府観光局の北アジア局長後見のもと、無事に合弁の調印式が行われたのを見届けた時は、目がしらがちょっと熱くなりましたね。

調印式

会期中には二つの大きなプレゼンテーションと記者会見があり、その準備も当日の通訳も務めさせていただきました。

シンガポール進出に賭ける思いを経営陣と共有しながら、まさにチーム一体となって頑張った実感がありましたね。

本当にありがたいことでした。

その間にエグゼクティブサーチ案件が2つほどまとまり、こちらでも忙しかったですね。人材の仕事は人と人との間に立っての交渉、調整が多いので神経を使います。オファーが出て入社するまで、いや、完全に戦力化するまで綿密なフォローが必要とされ、気が抜けません。それでも、その過程で毎回勉強の材料に出会うのもこの仕事です。

そんなこんなでもう9月。

これで少しはブログ更新をさぼっていた口実になったかな、と(笑)。

気がついてみたら今年は休暇を取っていませんでした。
そう、元旦もチャイニーズニューイヤーも。その頃は、日本からの出張者が中心のクライアントのプロジェクトに従事しており、出張者の方々って単身赴任だから週末も祝日も休まないんですよ〜!
で、こちらもそのスケジュールに合わせた結果です。
プロジェクト納期が厳しい仕事でしたので、これまた必死に進めましたね。

12月はお休み取りたいな・・・
そのためにもあと2か月、目の前にある仕事に全力投球します。

新しいオフィスの近くにあるDuxton Hillはとても素敵な場所です。
ヨーロッパの街の一角のような素敵な建物が並んでいます。
Duxton Hill

ここもすっかりオフィスだけになりましたが、お気に入りのレストランBROTHもまだ健在。
日本人パティシエ経営のおいしいケーキ屋さんもあります。

独立して3年。
まだまだ先は長いけれど、一歩づつ一歩づつ歩みを進めていきたいと思います。
そして、支えて下さる多くの方々に改めて感謝したいと思います。

New Address:
PRIME BUSINESS CONSULTANCY PTE LTD
No.68 Neil Road, Singapore 088836
Tel 6222 3040 / Fax 6222 4930

信念と情熱〜ピアニスト舘野泉氏にお会いして〜

前回のブログでご紹介したピアニスト舘野泉さんのピアノリサイタルが、6月1日夜、シンガポールのヴィクトリアコンサートホールで行われました。BlogPaint

それに先立ち、前日にはシンガポールの最大手新聞であるStraitsTimesの取材が行われ、通訳として同席する機会をいただきました。

舘野氏は現在73歳。芸大を首席で卒業し、「北海道生まれの母の影響か、寒い土地に憧れがあった」との一念で卒業直後にフィンランドのヘルシンキへ渡りました。当時、芸大を首席卒業すればリサイタルやオーケストラとの共演のオファーが舞い込むにもかかわらず、それらを振り切ってふらりとヘルシンキへ降り立った日本の若者は、まずは自分のピアノを聴いてもらおうと費用を自己負担して初リサイタルを行ったそうです。

結果は大成功でヨーロッパの7つの新聞で高い評価を受けたものの、アジアから何の後ろ盾もなくやってきた若手ピアニストがそのまま仕事にありつけるほど現実は甘くはなかったそうです(その準備過程で必要に迫られフィンランド語を2ヶ月ぐらいで覚えてしまったのは音楽家ゆえの耳の良さ?)。

4ヶ月して手元の資金が底をついた頃、ヘルシンキ市の音楽大学の教授が心臓発作で他界され、リサイタルの評判を記憶していた関係者から学校で教えてみないかとのオファーが来ました。それまでは教会でオルガン奏者をする代わりに宿舎と食事を提供され何とか生活していた舘野氏は、その頃にはすっかり気に入ってしまったフィンランドで暮し続ける手段としてそのオファーを受け取ります。数年で国立音楽大学であるシベリウスアカデミーの教授職に就き、その後はヨーロッパ各地での演奏会、メシアンコンクール第2位と演奏家として輝かしいキャリアを積み、1981年には外国人としては唯一のフィンランド政府による終身芸術家年金を受けるに至ったとのこと。これまでに世界各国で3000回を超す演奏会を開き、CDのリリースは100枚近く。

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実は私の家庭も一応、音楽一家。母親はピアノ教師、両親共にクラシック音楽の大ファン、叔父は高校の音楽教師をしながらかつて静岡県交響楽団というアマチュアオーケストラで指揮者を務め、従姉妹は芸大卒業後ウィーン国立音楽院でチェンバロを学んだという経歴。でも、私自身は演奏の才能はゼロだったようで、母親に叱られながらなんとかソナチネアルバムを終了したあたりであっさりドロップアウト。聴く専門となったもののやはりクラシック音楽への関心は尽きることなく、その中でもピアノは一番親しみを覚える楽器でした。

今回、当社プライムビジネスコンサルタンシーは日本航空さん、シャングリラホテルさんYAMAHAさんという大企業に並んで僭越ながら協賛企業として名前を連ねさせていただきましたが、こうしたご縁が生じる前からピアニスト舘野泉のCDは私のコレクションの中に入っていたのです。

その舘野氏、2001年にリサイタルでの演奏中に脳溢血で倒れ右半身不随になりながらもリハビリを続け、見事に第一線に復帰されました。未だに右手は演奏には使えずという状態。絶望の中で過ごしていた時期、左手のために作られた楽曲を試しに弾いてみた瞬間、「右手だろうが左手だろうが、手が1本だろうが2本だろうが音楽をするということには変わりはない」との思いが瞬間に浮かび、一切の迷いが吹っ切れたとのこと。それからは左手だけでリサイタルを開き、日本ではチケットが取れないほどの人気ぶり(今回、日本ではなかなか聴けないから、とシンガポールまでファンクラブの会員が聴きに来ていました)。

実際、聴いてみればピアノの88鍵の上すべてに彼の左手が舞うように動き、ペダリングの巧みさから音が途切れることもなく(あれだけペダルを使っても音が一切濁らないのはさすが!)、実に澄み切ったそして流麗な音色を奏でていました。ピアノはバイオリンと違ってキーを叩けばとりあえず音は出る。それだけに音色の深みを出すことの難しさは多少でもピアノをかじった人であればわかること。

そして、たしかにピアノの楽譜はト音記号とヘ音記号に分かれて書かれていますが、別に上を右手で下を左手で演奏せよとはどこにも書いていない。両手だろうと片手だろうと、そこに描かれている音楽を奏でることができれば良いわけです。

ま、これは言うのはカンタンですが、実際は舘野氏のレベルの技巧を持ち合わせている人間でなければ不可能なことなのですが。


リサイタルにはお世話になっているクライアントに加え、親しい友人も招待させていただきました。
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一応、スポンサー企業ですから開演まではご挨拶まわりに忙しく、しかし、ひとたび客席に着いてからは日常のすべてを忘れてその音色に酔いしれました。20年前に初の海外出張先となったヘルシンキ、週末に訪れた森と湖に囲まれた北欧の自然が脳裏に浮かんだ2時間でした。

お招きした方々からも、ピアノという楽器があれほどまでに深く情感を表せる楽器だったとは知らなかった、聴いている途中で思わず涙が出てきたという感想をいただきました。それはもはや弾き手の腕が1本か2本かという次元ではなく、終始目を閉じていても同じような感動を得られたであろうという芸術の域なのでしょうね。

終演後は日本大使館主催のレセプションに出席。
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いつもお世話になっているシンガポールビジネスフェデレーションCEOのテン・テンダー氏は奥様とお嬢様を同伴されてお越しになりました。奥様も不動産業界でバリバリ仕事をこなしているキャリアウーマン、お嬢様は慈善事業に従事していらっしゃる素敵なご一家です。山中シンガポール大使ご夫妻、Keppel GroupのCEOなど政財界の方々とも親しくお話しさせていただく機会を頂戴しました。

その後は大使館、主催者LaMuseの代表の方々と共に、舘野氏と共演の平原あゆみさんを沖縄料理にお連れして深夜までくつろいだ時間をご一緒させていただきました。沖縄料理と泡盛、先生は大変楽しまれたようです。舞台を降りると舘野先生は気さくで楽しい73歳のおじいちゃまになって、これまでに演奏旅行で訪れた国々のお話しを楽しそうにされていました。

5月28日の到着から約1週間、到着翌日のランチ、日曜日の植物園での無料コンサート、ストレーツタイムスの取材、リサイタル当日、そしてリサイタル翌日はインフルエンザにかかってしまった先生と平原さんを日本人クリニックにお送りしたり、と多くの時間を共有させていただきました(そしてその間に多くのビジネスネットワークも築きました!)。

音楽を語られる時には、いつもの穏やかな眼差しから一瞬意志の強い芸術家の眼差しになるのですが、一貫して感じたのは「音楽をする」ということにかけての信念と情熱。「音楽が僕を生かし、僕が音楽を生かしている」という言葉通りに、その人生においてぶれることのない信念と情熱を持ち続けている素晴らしい芸術家でした。と、同時にオフステージでは飾らないお人柄で、つくづく「この方にとって音楽をする、ということ以外は何であっても実にどうでも良いことなのだ、と実感しました。その「抜け感」もまた素敵でしたね。一芸に秀でた天才はそれ以外の分野にはこだわらないのでしょうが、まさにその通りでした。

何かを成し遂げようとする時に必要なものは、どこまでいっても「信念」と「情熱」なのだと、改めて学ばされた1週間でした。




舘野泉ピアノリサイタル(6月1日@Victorial Concert Hall)

20代の頃、毎年フィンランドのヘルシンキへ行く機会がありました。私の初めての海外出張先はヘルシンキ、いやもっと言えば最初のヨーロッパ上陸地点がこのフィンランドのヘルシンキだったのです。

26歳の9月、当時はFinnAirでしか飛べないシベリアンルート(欧州便はアンカレッジで給油の時代)で到着したヘルシンキ。深い森の中にひたすら突っ込んでいくような着陸でした。

ヘルシンキ港に面したカウパトリ(朝市)でコーヒーとデニッシュペストリーをつまんで、おやつ代わりのブルーベリーやボイズンベリーを買ってオフィスに出勤。9月というのにもう晩秋のような冷たい風、真っ青に晴れ渡った空と海。上空を飛び交うカモメたち。

シベリウスの交響詩フィンランディアそのものの澄み切った空気。その後、訪れた英国、フランス、スペイン、ギリシャ、ドイツ、オーストリア、スイスや東欧の街々とも異なる、よどみない空気に包まれた国。それが私にとってのフィンランドでした。

そんなフィンランドとは緯度も気候も文化も全く異なるシンガポールに、なぜか私は住んでいます。

アジアの国々は大好きだけど、時折、無性にあの冷たく透明な空気がなつかしくなります。

そんな折、知人が主催する会社が1960年代の後半からヘルシンキに在住するピアニスト、舘野泉氏のシンガポール初公演の企画運営をする話を聞きました。イズミ・タテノは当時のフィンランドでも既に有名であり、またクラシック音楽界においても既に確固とした地位を築いている音楽家でいらっしゃいます。フィンランド政府からも終身芸術家手当を支給されているほどの地位にあり、北欧に長く根付いて演奏活動を続けてこられたそうです。

数年前、脳溢血により右半身不随となりながらも、不屈の精神で2年間のリハビリを乗り越え、その後は左手だけの演奏で見事に第一線に復帰されました。CDを聴きましたが片手での演奏とは思えないほど流麗なピアノでした(両手満足にもかかわらず、ソナチネの後半でドロップアウトした自分が情けないです・・・笑)。

フィンランドへの思い、長年のクラシックファンとしての思いから、ささやかながらもコーポレートスポンサーとしてPrime Business Consultancyもご協力させていただくことにいたしました。

今週土曜日にはストレートタイムスの取材と写真撮影も入り、ボランティアの通訳としてお手伝いをさせていただく機会もいただきました。

目を閉じるとカウパトリの上空を海鳥が舞う青い空が浮かんできます。カウパトリ広場から続く階段を上った大聖堂から眺めるヘルシンキ港を見ていると、ちっぽけな悩みなど吹き飛んでしまう壮大さを感じたものでした。

この南国で、あの舘野氏と直接お会いし演奏を聴ける機会をいただいたことに感謝しています。6月1日が本当に楽しみです。

皆様、よろしければ是非、いらしてください。
会場でお会いいたしましょう!

コンサート情報は下記よりどうぞ。
http://www.lamuse-singapore.com/ja.html

プライムビジネスコンサルタンシーが誕生いたしました

皆様、ご無沙汰しておりました。

本日はひとつお知らせがあります。
このたび、プライムビジネスコンサルタンシー株式会社(Prime Business Consultancy Pte Ltd)を設立し、これまでのプライムサーチインターナショナルの業務を全て移管いたしました。

プライムサーチインターナショナルではエグゼクティブサーチと一般人材紹介業にほぼ限定していたのですが、新会社ではシンガポールへの進出を考える日本企業のための市場参入コンサルティングに代表される包括的な経営コンサルティングを提供してまいります。

単に法人設立の手続きだけではなく、「そもそも当社はシンガポールへ進出するべきか?」「進出する場合、当社の製品・サービスの市場競争力はどの程度なのか?」「必要な提携先や販売代理店は見つかるのか?」というところから、現場の視点でサポートを提供させていただきます。

そしてシンガポールへの進出が本格的に決定した際には、既にある程度の顧客ベースを確立できるようにするというのが狙いです。

勿論、人材紹介もさせていただきます。新会社名で新たに人材紹介業ライセンスも取得し、これまで以上にマネジメントレベルの人材紹介を充実させてまいります。

包括的な進出支援サポートの一環として、組織作り、人材獲得が位置づけられるわけです。

年末からこれまで2つの大きなプロジェクトが走る中、人材紹介のお仕事でもそこそこ忙しくさせていただき、何人かの方々が新たにシンガポールでのキャリアをスタートさせました。その間にホームページの制作やメディアへの広告、重要なビジネスネットワーク先への新会社の紹介訪問などなど・・・本当に冗談でなく年末からの土日で完全休業をしたのは2日だけなんですよ。クリスマス、元旦、旧正月の2日間も終日仕事でした(ご一緒に働いたクライアント各氏もタフでしたね!)。

というわけで、ようやく正式なご挨拶ができる運びとなりました。
シンガポールの日本語紙・アジアエックスに明日から広告が掲載されます。
広告案を自ら作って下さった内藤社長には本当に感謝いたします。

プライムサーチインターナショナルは2006年末に法人登記いたしましたが、当時、私が前職で東京オフィスに出向直後であったため、日本から登記手続きをしました。2007年はコンサル資格の取得や日本・シンガポール間を行き来するプロジェクトに従事していたこともあり、実際に日本の生活をたたんでシンガポールに戻ってきたのは2008年正月のことです。

そこから2年半弱。
かつてのクライアントも帰国されたりと、人脈の乏しい中でのスタートでしたが、本当に多くの方々に出会い、ひとつひとつのご縁に助けられながらささやかではありますが、こうして事業の幅を広げることができましたことに心から御礼申し上げます。一番うれしかったのはお客様がお客様を紹介して下さったり、当社から転職した方の組織に人材をご紹介させていただいたりしたことですね。

この間、リーマンショックによる経済危機も経験しましたし、決して順風満帆な時期ばかりではない2年半でした。

それでも、仕事の中では厳しく時には思いやり深い言葉で私を支え続けて下さったクライアント各社の皆様、当社を通じて新たなキャリアを得て同時にその姿で私が逆に励まされた求職者の方々、酔者の会や経営塾の仲間の皆様、シンガポールに渡ってから早10年以上も親しくお付き合いしているアラフォー女性の皆様(碇さん、ぽめちゃん、たにまゆ、高木さん、福田さん!今度またご飯行こうね!)、無理難題をいつも快く聞いて素敵なホームページを作ってくれたMiwaさん、シンガポール日本語教会の皆様、日本においては横浜のバフバフさん、東京の自称小商人さん、ハゲタカのカズさん、四谷の美樹女史、銀座の細田さん、ヒルズのサトちゃん、そして、1996年のある夏「シンガポールに行ってくるよ、仕事決まったから」という(相談ではなく)報告を受けて面食らいながらも信じて背中を押してくれた大切な日本の両親に心からの感謝を申し上げます。

そして起業する決心をしてシンガポールに戻る直前の2007年11月の末、送別会のために新橋の居酒屋に集まってくれた大学のESSの同期と後輩17名。卒業以来の顔もあった中、夜明けまでデニーズで語り明かした懐かしく大切な仲間たちにも感謝!この2年半、辛い時には皆の顔が浮かんだものでした。起業は本人の気持ちだけではできない。環境と条件もそろわないと踏み出せない。そして起業後、事業を継続することこそ自分一人ではできないこと。多くの人の支えがあって今日があることを心から感謝しています。

最後に、私の大切な家族である愛犬ロンちゃんにもTHANKS !
仕事で忙しい日はお留守番が長かったり、早朝出社のために6時前に起こして散歩に行ったりする中、いつもおりこうにしていてくれてありがとう。キミのぬくもりがいつも元気の素だったよ!

では、皆様、今後ともプライムビジネスコンサルタンシーと川村千秋を何卒よろしくお願い申し上げます。

Prime Business Consultancy Pte Ltd
www.prime-business.biz








アナタには報告しない・・・?

「こっちのヤツってホント、ほう・れん・そうができないんですよね」

ある日系企業のオフィスにて。
目の前には昨年初めて海外勤務になった日本人の男性駐在員。

確かにあまり相談しないで自分の考えでどんどん仕事を進めてしまうローカル社員は多い。

「だからダメなんですよね、独力でやっちゃって後から言ってくるからねぇ。
 訊けばいいのにねぇ。で、トラブルがあったら早めに報告するとか・・・」

ふーん、そうかもしれないですねぇ・・・と私はコーヒーをいただきながらじっくり表情を観察。

途中、片言の日本語の秘書が書類を持ってくる。
「ふんふん、そうか、じゃあ●●さんに電話しておいて。あ、オレ、この後外出するからね。直帰するし、直帰、チョッキだよ!」

シンガポーリアンの秘書嬢は真剣な顔で指示を聞いていたが、どこまでわかったものか半信半疑。
「チョキ・・・ですか?」
「そうそう、じゃあまだミーティングしてるから」

追い立てるようにドアを指差した。
秘書嬢はそそくさと退散。

彼はかなりの早口。頭の回転もいいんだろうな、仕事のテンポも速いだろうな。
でも、相手の視線では見られない方かも・・・こういう上司だと苦労するな・・・それにしてもこのコーヒー甘いな・・・そんなことを考えながら話の続きを始める。

採用事業をやっていると日頃シンガポーリアンの求職者と話す機会が多い。
そこでは日系企業に対する彼らの本音が聞ける。
上司にも人事にも、もしかしたら同じ会社の同僚にも話さないかもしれない本音だ。

よく聞かれるのが「日本企業は上司とコミュニケーションが取れない」というもの。英語がそもそも苦手な人が多いし、ということは言葉が通じない相手と仕事をするようなもの。

「英語ができるから海外赴任するわけじゃない。仕事ができるから選ばれたんだ」
「日本は憧れの国だろ?日本企業に入れてお前らラッキーと思えよ」
「日本企業に勤めるならローカル社員こそ少しは日本語を学べ」
「別に好きで選んでシンガポールに来たわけじゃない。本社の決定だ」

駐在員の貴方、これを読んで「そっ、そっ、そーなんだよ!」などと頷いてはいらっしゃらないでしょうね?
それって結構・・・カッコ悪い姿です。
そしてそれが態度に出るようになったら貴方の会社は既にアブナイかも。
貴方の会社の社員は人材紹介会社に来て「言葉のよく通じない上司相手に仕事をしてコミュニケーションミスで誤解されて、相当厄介なんです、うちの上司」なんてこぼしているかもしれません。

考えてもみてください。
貴方は中東の某国の日本支社に勤めています。
ある日、某国から駐在員がやってまいりました。

「俺はアメリカが大嫌いだ、よって英語なんか勉強しない。ましては国連公用語にもなっていない極東の島国の言葉なんて知るか(アラビア語は一応公用語ですよね)!」「そもそも俺が東京に来たのは仕事の中身だけを評価されてここにきたんだ。お前ら中東の会社に勤めるならアラビア語を勉強しろ」

会議はアラビア語がわかる人間だけで進める。
日本支社の現地社員は英語もそこそこできるのだが、駐在員がアラビア語しかわからないから結局あとで重要事項はアラビア語会議で決めてしまう。
その議事録はあのミミズが這ったようなアラビア語でしたため、本社へ送信。
本社からのメールも大半がアラビア語だ。

アラビア語中心で進める会議に出たって貴方の耳には情報は入らない。
情報共有が不足しているから、たまに勘違いからくるトンチンカンな発言をしてアラビア人マネジャーたちの冷たい視線にさらされる。
「コイツは仕事出来ないな・・・」
きっとそう思われているだろう。でも、誤解を解くほどこっちはアラビア語ができないし。
えーい、メンドクサイ。放っておくしかない。
最近、社内会議での貴方の存在は空気より軽くなってきた。
一応、貴方は現地社員では一番上。それだけにツライ。

おっと、今度は本社から技術者が大量に派遣されてきた。
製品仕様書も取扱説明書も全てアラビア語だ。
出たばかりの最新機器だから日本語訳が間に合わなかったそうだ。
でも、同じ理由を3年前にも聞いたような・・・
その時の最新機器の取説はいまだにアラビア語バージョンのままだ。
結局、自分が日本語で取説を作った。
で、他の仕事が遅れて日本語とアラビア語のチャンポンで叱られたような・・・

製品のボタンにに貼られているステッカーも全てアラビア語だ。
アラビア語がわからなければ、「うーん、この機能を使うには右から、えっと・・・イチ、ニ、サン、そうか三番目のボタンを押すんだな」と貴方は記憶する。
一事が万事そんな調子だから記憶違いからくる誤操作はよくある。

本社の技術者に訊ねたらアラビア語で言葉を区切るようにしてゆっくり話してくれたが・・・
しかし、アラビア語はアラビア語だ。わかるわけがない。
戸惑ったような微笑みを浮かべて立ちすくんでいると、彼はさっさと手元を動かして仕事を進めてしまう。

貴方は自分に言い聞かせる。
「仕方がない、後でまた試行錯誤してみよう」

「ああ、今日も疲れた。アラビア語学校でも行くかな・・・でもアラビア語なんてこの先ほかでは使うことないだろうし」
オフィスを出ると上司達はアラビア語で楽しそうに喋りながら社用車に乗り込んでいった。
今日もまた中東の水タバコが楽しめるクラブ・シェラザードに行くのかな。
「極東の島国って馬鹿にするけど、その島国で商売させてもらってるだろうが。で、その島国内にもお客さんがいるだろうが。俺たちいなけりゃ、そうしたお客さんとも話できないじゃないか」

ま、いいか。中東なんて観光で行くのはいいけど、俺だってアラビア語しか通じない国なんてゴメンだからな。
その程度のものなんだ、関心なんて・・・
入社した時はこうじゃなかったけどな。憧れてたな、あの国にあの頃は。
現実の生活では言葉がまともに通じない上司の下で働いてコミュニケーションミスで責められるのはいつもこっちだからな。

これは誇張ではなく日常的によくある話。
アラビアを日本に自動変換して読んでください。

「報告しない、相談しない・・・」とローカル社員を責める前に、
「オレには報告しない、オレには相談しない・・・なぜだろう?」と考えてみてはいかがでしょう。

外国語で外国人のマネジメントをしなければならない。
その御苦労はとてもよくわかります。
でも、ここはシンガポール。
シンガポールの論理でものごとは動いてしまうのです。

流暢でなくても話そうとする努力をしている。
その熱意が伝われば現地社員は応えてくれるでしょう。
温度差が開いてしまうのは、英語が上手くないという事実ではなく、それに開き直りをしている事実なのです。英語下手を言い訳に相手に伝えよう、理解しようという気持ちを最初から放棄してしまっているからです。

面談時に現地社員が嘆くのはこの点。
彼らは日本人の英語下手を非難してはいません。
ある意味、シンガポールのような多言語国家はむしろ少数なのですから。

ま、米国人。この方々も世界どこへ行っても英語で押し通すというヘンな押しの強さが目立ちます。でも、そこは言語としての汎用性を考えれば日本語は圧倒的にマイノリティなのですから・・・

社長室を出た時、秘書嬢は日本語の辞書と格闘していました。
入ってきた電話に応対しながら社長は「見送れなくてスマン!」と言いたげに片手を上げて頭を下げています。
相手に気を遣う方なんだな、本当はいいヒトかも・・・

「あのね・・・チョッキって“直接(家に)帰る”っていう意味。辞書にはないかもね」
そう秘書嬢に伝えてオフィスを出ました。


オフィス移転!

前回のブログ更新からなんと1ヶ月も経ってしまいました。

7月は多忙でしたね・・・前回ご紹介したインターナショナルVIPクラブのセミナーが7月7日に開催され、40名を越す方々がお見えになりました。アジアエックスさん、J-PLUSさん、NNAさんなど当地のメディアにも紹介され、まずは大成功でした。ご来場下さった方々、ご協力をいただきました方々、本当にありがとうございました。

セミナーが終わったと思ったら、直後にいくつかまとめてプロジェクトが入ってきて、それに追われていたらあっという間に20日過ぎ。

7月末はオフィスの移転をしなくてはならなかったんですよ〜!

開業以来、テナントとしてお世話になっていたサービスオフィスが7月末で閉鎖になることから、次の場所を探さなくてはなりませんでした。6月ぐらいから入居先候補は調べていたのですが、いざ契約となるとお願いしたいリクエストがたくさん出てきて交渉に時間がかかってしまいました。

それでも一番わがままを聞いて下さったPARK AVENUE @ UE Squareに入居が決まり、7月最後の週に一気に荷物をまとめてお引越し!

MRT駅からのアクセスが以前ほどは良くないのですが環境は良好です。
ランチタイムの混雑がない、通勤時の渋滞がない、駐車場がビル内にあるなど、結構快適です。

8月3日より下記の住所で業務再開いたしました。
移転当日に綺麗なお花を届けてくださった皆様、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

PRIME SEARCH INTERNATIONAL
81 CLEMENCEAU AVENUE, #04-15/16 UE SQUARE
SINGAPORE 239917


今年後半から来年にかけて新規ビジネスも立ち上げる予定です。
エグゼクティブサーチとのシナジー効果が期待できる分野です。
気持ちを新たに頑張りますので今後ともよろしくお願いいたします。

返事が・・・ない

日常生活に不可欠になっているメールですが、最近ふと気になることがあります。

仕事がら日本をはじめ様々な国の日本人からメールをいただきます。
13年もシンガポールに暮らしていればこのくらいわかるだろう、という程度のものから、ちょっとした下調べをしないとお答えできない問い合わせまで。

「なぜ私に質問するのかなぁ・・・」と思える問い合わせもありますが、わからない時もそれなりに調べる方法を提案したり、ちょっとした電話でわかることならやって差し上げています。

ただ気になるのは・・・その半分ぐらいがお返事をお送りした後、何の音沙汰もないのです。

別に仰々しいお礼状が欲しいわけでもありませんが、メールは必ず届いたかどうかこちらではわかりようがないもの。添付ファイルなどがあった場合は、相手方のセキュリティプログラムで自動的に削除されてしまったりもしますからね。

そして、やはりお返事した者としては無事に届いてお読みいただけたかどうかを知りたいものです。

それが・・・返事がない。

訊きたいことを訊いて問題解決してしまったんだからもういいや、とういことなのでしょうか。
その方から見れば「自分がメールを送った」→「返事が来た」→「完了」なのでしょうが、こちらは「完了」していないわけです。

よくある問い合わせ例としては:

★シンガポールの生活全般のこと(できるだけお答えしますが、まずはウェブサイト検索されたらどうでしょうか。日本語でもいくらでもありますよね)

★こういうビジネスはシンガポールで流行るか?(プロに市場調査を依頼したらどうでしょうね。主観でしかお答えできませんし、個人の主観をベースに事業構築なんて危険すぎます)

★○○が備わっているコンドミニアムはないのか?(知っている限りでお答えしましたが・・)

★弁護士費用を知りたいのだが英語ができないので・・・(たどたどしくてもいいから自分でメールを送って問い合わせてみてください)

★会社を作りたいので方法を教えてください(私はACRAのサイトを必死に読んで勉強したものですが・・・事業を自分でやろうという人が最初から人頼みでいいんですかね)

★ヘッドハンターからメールが来たけど、社内で自分を蹴落とそうとしている同僚の差し金じゃないか?(メールの内容を見て「杞憂です」とお答えしたら逆に気に障ったのでしょうか。ちなみにヘッドハンターは社内ポリティックスの道具にされるような仕事には手を出しませんよ。「島耕作」の読み過ぎなのでは?)

★即座に仕事が欲しいので電話面接だけで採用してくれる会社を紹介してほしい(よほどの事情がない限りちゃんとした会社はそんなことはしません。外国人であるアナタを採用してビザのスポンサーになるんですよ。その人物に直接会って採用を決めたいと思うのは当然です)

★いま日本にいるが今年中に永住権を取りたいのだが・・・(まずこちらで就職して納税実績を作って下さい。シンガポールという国にとって「必要な人」になれなければ永住権は出ません)

★シンガポールとアメリカと就職するにはどちらが良いか?(その人の備えている条件と目的により異なります。そんなこと他人の意見を聞いて決めることでしょうか?)

上記の大半が面識がない、またはなきに等しい方々からの問い合わせだから驚きます。そして大半がこちらからお返事した後、何の連絡もないのです。

ちなみに(  )の中は私の本音。実際にはちゃんと懇切丁寧にできる限りのお返事を差し上げています。

面接の中でアピールポイントとして「コミュニケーション能力」「ネットワーキング力」をあげる方が多いのですが、それは単に「喋りの巧さ」ではないことはご存知の通り。相手のニーズを汲み取り意思疎通を図るところから始まり、相互利益につなげる努力、仮にそこに至らずとも「また協力してあげよう」と思わせる関係の構築能力。それがなければ名刺が何枚あっても「人脈」にはなりませんよね。

ちなみに「人脈」って、いざといった時に相手が利害関係抜きで力になってくれる、そんな関係にある相手を指すと私は考えます。それ以外はただの「知人」。ですから「知人」にはあまりやっかいな事はお願いしないほうが無難です。

少なくとも自分の問い合わせに対して相手が時間と労力を費やして返事を送ってきた場合、数行のお礼メールも送れない人が色々な人の支えて成り立っていく海外生活を送れるのかは甚だ疑問です。

一方で、まだ20代の女性なのにこうしたことがきちんとわかっている方もいます。仮にA子さんとしましょう。

彼女のメールは冗長ではなくしかし丁寧で必要な内容がまとめられており、私との電話面接の日程調整などにも細かい気配りが感じられ、何よりレスポンスが早い。来星して企業面接になりましたが数人の管理職による面接をストレートで突破し、あれよあれよといううちにオファーとなりました。単なる連絡事項であっても、「ご連絡ありがとうございました。お申し出いただいた内容、承りました」と短くても必ず返事を送ってきました。

今は数人を束ねるマネジャーとして、20代でありながらも5千ドルレベルの待遇で働いていらっしゃいます。そんな彼女ですから周りが応援してあげよう、という気持ちになってしまい、知らず知らずのうちにファンが増えて「チームA子」が出来てしまうのです。得な性格?いえいえ、常識と礼儀と気配りのバランスが良いからです。私もそんなファンの一人です。

日本人同士だからつい甘えてあれこれ頼む。
日本人同士だからお礼なんか言わなくても相手はわかってくれている。
それって単なる子供の甘えと同じじゃないかと思います。
外じゃ通用しませんよ。

自立せよ、大人になれ日本人!

たまに、そう叫びたくなる時もある・・・というモノローグでした。

里親募集中!

この週末は“里親募集会”のお手伝いに行きました。

昨年からボランティアとして参加しているAction For Singapore Dogs (ASD)という捨て犬の保護活動をしている非営利団体で里親探しのイベントがあったのです。場所はブキティマ地区のTurf City。市街地からほど近い高級住宅地ブキティマからほんの数分の緑の多いTurf Club Roadに K9 Kultureという犬のための総合施設があります。ここは犬のしつけ教室からデイケアセンター、グルーミング施設、手作りドッグフード店、クリニックなどなど、愛犬家とその犬にとっては何でも揃う場所です。

その一角を借りて、我がASDに保護されているワンコたち約10頭が新しい家族に巡り会うためにやってきました。

本当は成犬になってからでも新しい飼い主には充分なつくものなのですが、やはり子犬の方が里親は見つかりやすい。ということで、この日も大半は生まれて半年未満の子犬を連れて行きました。

畳1畳分ぐらいのサークルを2つ出して子犬たちはASDスタッフ手作りのバンダナを首に巻いて、しかし来場者に愛想をふりまくわけではなく、極めてマイペースで食べて遊んでお水を飲んでオシッコして・・・(ま、子犬とはそういうものです)疲れたらサークルの中ですやすや眠ってしまいます。

最近は不況の影響でメイドを解雇する家が多く、「メイドがいなくなったから飼えない」と無責任にも施設に犬を持ちこむ家庭も増えたとか。そもそも飼う以上、メイド任せにすること自体おかしいと私は思います。犬を育てることはその家の子供にとっては最高の「大人になる訓練」だと思うのです。自分が世話しなければ生きていけないのが家庭犬ですからね。

かく言う私も虐待されていたワンちゃんを引き取り1年になりますが、毎朝暗いうちから散歩に連れて行き、夜はどんなに疲れていても雨が降っていなければまた散歩に連れて行く。出張の時は家庭で預かってくれるドッグシッターさんに預けますからお金もかかります。飼う前は、「疲れて帰宅した時、足元にまとわりついてきたらイヤだな」と思ったこともありましたが、なんのなんの・・・尻尾を振って出迎えてくれる姿を見るだけで一日の疲れなど吹き飛んで「さぁ〜、お散歩いこうねぇ〜!」などと浮足立ってしまうのです。

ただ、言葉が通じない相手ですから忍耐も培われます。明け方、ベッドにもぐりこんできておネショをされた時は、朝の4時にシーツを洗濯する破目になり・・・「こいつぅ〜」と思い切りお尻をたたこうとする直前で、「いけない、いけない、この子は何を叱られているのかわかっていないのだから」と気を取り直したことが何度もありました。

人間の子供の子育てと一緒にしたら世のお母様方に叱られそうですが、意志疎通の充分でない相手に忍耐を持って教えていかなければならない点は同じではないでしょうか。子供のいない私にとっては、それはひとつの人間修行だったように思います。

つまり犬と暮らすことは楽しいことばかりじゃない。それなりの犠牲も必要。だからこそ、メイドという他人任せではなく、家族が、できればその家の子供が責任を持って世話をすることが大切なのだと思います。そうして自分より弱い者、助けを必要としている者を世話することで、忍耐も優しさも育まれていくのではないでしょうか。

その意味では、アクセサリーを買うように犬を買っていくのは間違いだと思いますし、世話できないから、不要(?)になったから、と言って施設に連れてくるのは無責任極まりないと思うのです。

と、いろいろ言いたいことはありますが、犬たちはそんな背負ってきた背景を感じさせないほど明るく、裏切られても裏切られても人間を信じようとする生き物なのですね。今回の里親募集中のワンコたちも皆、そんないじらしいほど純粋な子たちでした。

1頭だけその外見からも可哀想なワンコがいました。
名前はYAHOO(ヤフー)。4歳になる男の子です。
ヤフーは片耳がありません。それは元の飼い主によって切り取られてしまったからです。ヤフーの頭の天辺は毛が全く生えていません。それは元の飼い主が熱湯を浴びせかけたからです。そんな虐待の状況から何とか救い出し、必要な医療ケアを施し、半年してようやく元気になりました。まだちょっと食が細く痩せていますが、食べる量も徐々に増えてきています。

そんなヤフーですが、ドッグシェルター施設に訪問者がいると、真っ先に駆け寄って尻尾を振って出迎えます。残念なことに彼のそんな外観に大半の訪問者はぎょっとした顔を見せ、そそくさを視線をそらすのですが。

ヤフーは既に通院も不要になり、頭の天辺の皮膚はやけどの跡が残っていますが、皮膚炎などもなく極めて健康です。片耳が切り落とされた跡は生々しいけれど、聴力も正常です。そんな体験をしたにもかかわらず、ヤフーは人間が大好きでボランティアスタッフの人気者。椅子に座っているとやってきては後ろ脚で這い上がり、「ねぇ、抱っこして」と甘えてきます。抱っこすると喉の奥でくぅくぅと甘えた声を出してなつきます。

シェルターの犬たちは様々な生い立ちを過ごしており、その多くが不幸の連続。それだけにASDのスタッフやボランティアは今度こそは幸せになってほしいと願っています。ですから里親に名乗り出ても、終世飼育ができない家族であれば丁寧にお断りしています。今度、引き取ったら「メイドが辞めたから」なんて理由で戻されては犬が可哀そうだからです。

会場となったK9 Kultureの一角では、1日45ドルもする費用を払ってまでデイケアで世話をしてもらったり、プロの手でシャンプーしてもらった幸せな犬たちも見かけました。同じ犬として生まれながら、なぜこの子たちにはあのように愛されなかったんだろうと思うと胸が痛みました。

この日、里親が決まったのは4頭。これから手続きをしますから当日お持ち帰りは出来ませんが、この子たちに家族が出来るのも近々のことでしょう。世話をしていた子が貰われて行くのはちょっとさびしいけれど、いつも「幸せになれよ〜、戻ってきちゃダメだよ!」と心の中で叫んで送り出します。

最近、新しいデジカメを買いました。
早速、今回の写真を載せてみますね。

責任を持ってこうした犬たちを迎え入れて下さる方がいらっしゃいましたら、ぜひ、私までご連絡ください。決心するに至らなくてもご相談の段階でも結構です。人間たちのエゴの犠牲になってきたもの言えない小さな命を同じ人間として温かく迎え入れてあげていただけませんか。犬たちは生涯あなたを裏切ることなく、全幅の信頼を寄せて寄り添ってくれますよ。

ご連絡は、kawamura@primesearch-i.com までどうぞ。

お昼寝中
お昼寝中

ボクをおうちに連れてって
ボクの家族はどこにいるの?

ボクの家族はどこにいるの?
ボクをおうちに連れてって!

右耳のないヤフー
右耳のないヤフー

不幸な生い立ちを乗り越えたこの笑顔!
不幸な生い立ちを乗り越えてヤフーは生きる!
お昼寝中
貴方の優しさを待ってます♪

一瞬先は・・・

今月は10日夜から19日まで東京と大阪に出張していました。
初めてあのA380(シンガポール航空所有のダブルデッカーエアクラフト)に乗りましたよ。B747-400より座席に余裕があって快適でした。

それにしてもインフルエンザの影響か座席はガラガラ・・・そういえばこのA380はエアバス側の理由で納入が1年も遅れた上に、重なるように原油価格が高騰しその後の世界景気の大後退。シンガポール航空としては、「うちは格安エアラインとは一線を画して高級化を図る」と豪語していたのに何ともタイミング悪く厳しい状況に追い込まれてしまいました。同時期に頭角を現したバジェットエアラインはどんどん成長してしまい、ようやく原油が下がったと思ったら今度は新型インフルエンザで旅控えの傾向・・・まったく一瞬先は読めないものです。

さてさて五月晴れの日本から戻ってオフィスに出るなり、当社が入っているサービスオフィスのマネジャーがようやく見つけたと言わんばかりに走り寄ってきました。

なんとうちが入っているRaffles Business Suitesですが、Equity Plazaのビルオーナー側と交渉がまとまらず、7月末で26階のオフィススペースそのものを閉鎖するとのこと・・・ショック!

たしかに昨年末、「8月以降はまだビル側と家賃交渉していないから、とりあえず7月末までの契約ね」ということで納得しており、しかしこの市況ですから家賃が下がることはあっても上がることはなかろうと楽観していたのです。既に昨年末の時点で1か月もかけて家賃を30%値切ったワタクシ。「アンタのようなケチなテナントはもういらん!」と放り出されるならまだしも、このままではテナント全員がRaffles Placeで難民化するかも・・・

さて、日本ではあまり馴染みのないServiced Officeというものをちょっとご紹介しますね。早い話、日本で言うレンタルオフィスなのですが、「わんわんまるまるニャンニャンニャン♪」のCM(かなり古い?)とは異なり、一流会社の受付並の入口に始まり、大会議室、ミーティングルーム、自由にコーヒーが飲めるラウンジなどが共有部分としてあり、様々な広さの個室が用意されています。うちのオフィスはその中でも内装はシンプルな方だと思いますが、近隣のサービスオフィスの下見に行った時は高級ホテル並みの内装、ふかふか過ぎてカーペットに足を取られそうになったほど。

立地は大抵プレミアロケーションであることや、入居した瞬間からインターネットや電話が使え、オフィス家具もついており、コピー機やシュレッダーも共有スペースにあったりすることから、まさに「アタッシュケースひとつで仕事が開始できる(そんなコピーがあった)」わけです。なんとうちのオフィスにはビリヤード台もあります(1年半いてまだ使ったことない)。

来客時には受付スタッフが対応してくれますし、電話も希望すればテナントの会社名で取り次いでくれ郵便物の管理なども万全なことから、小規模な会社には大変使い勝手のよいものなのです。実際、テナントには個人弁護士事務所や設計事務所、投資ファンドや各種コンサルタントといった業種が多いようです。

値段はスペースに比べればかなり高めでしょうが、内装工事やオフィス家具にお金を使わなくて済みますし、なにより無駄がない。ということで、起業する際には迷わずServiced Officeを選びました。

私のオフィスは小さなユニットですが、それでも初めての自分の会社のオフィススペースでしたから愛着もありました。最初の半年ぐらいは毎週花を買ってきて活けていましたね(いつの間にかやらなくなった→反省)。「いつか窓があるユニットに移ろう!(窓があるのとないのとではひと月に$1000違います)」をモチベーションに頑張ってきたのに・・・

26階ですからバルコニーからの眺めは最高で、煮詰まるとよくここで海を眺めて気分転換していました。求職者の方との面談の後バルコニーにお連れするとリラックスして色々なお話をされることがありました。面談の中では見せなかったそれぞれの方の穏やかな表情が目に浮かびます。

小さなテーブルと椅子が並んだバルコニー。日差しが強くない日はここで買ってきたサンドウィッチでランチを食べていましたね。

ああ、この眺めもあと2か月なのね・・・ホントにホントに悲しいです(涙)。

ここに入居した月には友人たちが集まってくれて、お寿司とワインを取り寄せてお祝いしました。盛り上がっている友人を残して、どうしてもそのタイミングで電話面接しなければならなかったマレーシアの求職者に延々と電話をかけたり・・・短い期間だったけど、いろいろな思い出が詰まったオフィスでした。取り壊されてしまうのは本当にしのびないですね。

同じサービスオフィスの運営会社が近くにもう1軒持っているので、たぶんそこに行くことになると思いますが、マーケットも下がっていることだし、この機会にshop aroundしてみたいと思います。

どうか難民化せずに終わりますように・・・












与える喜び〜ボランティア活動記〜

ここ数年、私が関わっているボランティア活動にドッグシェルターの運営、つまりは捨て犬の保護活動があります。

発端は以前の会社で東京に転勤になった際、愛犬をシンガポールから同行させたものの東京のマンションでは犬は飼えず、泣く泣く静岡の両親に預けたことからです。そのうち帰省できない週末に、せめて他人様の犬でも触れたら・・・という思いで探して府中市にあるSALAネットワークというNPO団体で捨てられてしまったワンちゃんたちの世話をボランティアとして始めました。犬を2−3頭連れて散歩に行って帰ってはまた別の犬を連れて散歩。運動不足の解消に良いわ〜、ぐらいの気持ちで始めたのですが、そのうち、ペットブームの影で商品として取り引きされる犬たちの不幸な運命が後を絶たない事実を知り、表面的な活動だけではなくドッグシェルターの運営そのものに関心を抱くようになりました。

会社を退職して起業準備期間の1年間は資格取得のための勉強と時々シンガポールと日本を往復するぐらいしか特にすることもなかったので、一時期はこの団体宿舎に泊まり込みで活動したりもしていました。犬を連れて老人ホームを訪問したり、新宿西口の小田急百貨店前で街頭募金をしたり。それまでずっと会社員生活一辺倒でしたから、こうした活動は新鮮でもあり、また同時に自分の今までの人生では見えなかったものが色々見えてきて、一層、個人ができる社会貢献とは何か、そもそも社会貢献そのものについても自分なりに考える機会を与えられました。

シンガポールに戻ってから、今はASD(Action for Singapore Dogs)という団体で同様の活動をしています。昨年9月から年末までは、2009年度の犬たちの医療費とシェルター運営費を集めるために、土曜日ごとに島内のショッピングセンターにカレンダー(保護されて里親先で幸せに暮らしているワンコの写真多数掲)やオリジナルデザインのTシャツなどを販売しました。Scotts RoadのIsetan地下、Suntec City, Marina Square, OrchardのCentrePoint・・・ずいぶんたくさんのショッピングセンターに行きましたね。そこでブースを設けて、胸に「日本語でどうぞ!」のプレートを付けて来店される方に対応するのです。(今のところあまり日本人のお客様がいらしたことはないのですが)。販売するだけではなく、もちろんこの団体の活動内容を詳しく説明したりもします。口コミで里親が見つかることもありますからね。

ボランティア仲間は今のところ全員シンガポールの方ばかりですが、家庭の主婦あり、お医者さんあり、学生あり、システムエンジニアあり、学校の先生あり、“Between the Job person(つまり求職中の人)”あり、つい先日までシンガポール航空で飛んでいた元フライトアテンダントあり(彼女はDuty Free Salesで磨いた販売スキル→ついでにもう一品お買い上げ〜、を存分に発揮してくれました)・・・今は店を息子に任せて現役引退したホッケンミー屋のご主人もいましたね(その店に伺うといつも大盛サービスにしてくれます・・・太るけど)。

こうした販売ブースを出さない土曜日は、この団体の運営するドッグシェルターに行きます。Lim Chu Kangというシンガポールの地の果て・・・Woodlandsをず〜っと西に行ったシンガポールの島のはずれ、と言えばわかるでしょうか。とにかく森みたいなところで何もないところです。そこへPIE、BKEと高速道路を突っ走って行くのです(通勤はたかだか片道15キロ弱なのに、私の車が毎月の走行距離が1500キロを軽く超えるのはなぜか?これが理由です。別に道に迷ってムダ走りしているわけではありません!)。

ここのドッグシェルターには70頭もの犬が保護されており、犬舎の清掃や散歩、躾トレーニングなど、やることがいくらでもあるのです。汗だくになりますし、蚊に刺されやすい私は全身に蚊よけスプレーを振りかけての肉体労働になります。それでも世話した犬たちの嬉しそうな表情、虐待されて人を信じなくなった犬が心を開いてなついてきた時の感動は言い表せないものがありますね。

飼えないからと持ち込まれたり、野良犬になってしまった犬を保護し、必要な医療を与え、躾をし、里親を探して第二の人生に送りだす。この仕事をすると、生き物を終世世話する覚悟もなくブランド物のバッグを買う感覚で犬を買う人の多さとその無責任さに驚きます。犬はどんなに可愛くても、血統書があるお高い犬であろうとも、ゴハンを食べ、オシッコをし、ウンチもするのです(犬のウンチは相当クサいです)。散歩も最低一日一度は必要です。それが毎日毎日毎日毎日・・・あるのです。人間並みに病気にもなるし、そうなると医療費もばかになりません。少なくとも私の愛犬=オスのジャックラッセル雑種のクリニック代は私がGPに行くよりずっと高い(涙)。

帰国するにあたり、引っ越し先で犬が飼えないからと言って、飛行機に乗る直前にチャンギの森に犬を捨てた日本人家族もいました。その犬は哀しいことに保護されてからも日本語にしか反応しないのです。

私がこうした活動を細々と続けているのは、動物の純粋さに単純に魅かれることもひとつですが、こうした活動を通じて命の大切さをわかってほしいから。私が日本を出て13年が経ちますが、この間、日本は人間がどんどん壊れていってしまったような印象を得るのです。紛争地帯でもないのに、これだけ簡単に人が殺される国もないのではないかと思います。それも家庭内殺人やホームレスなどの弱者を一方的に痛めつける残虐行為。調べてみるとそういう人たちの多くが、子供時代に動物虐待をやっていることが多いのです。自分より弱い者を保護するのではなく虐める行動を取ってしまう。そして虐めるとなるととことんやってしまって命さえも奪ってしまう。社会の成長段階を考えると、いずれシンガポールもそうなる可能性はゼロではないと思います。

ドッグシェルターの使命は単に動物を保護することだけではなく、そもそも捨てられる動物が出ないよう啓蒙活動を行うことが根本的な使命としてあります。こうした活動はアメリカや欧州の一部(とくに英国やドイツ)などではさかんですが、アジアではまだまだのようです。しかしその社会的意義は今後は広く認められていくのではないかと思います。

犬を飼いたいと思っている貴方。
犬は大型犬で8年ほど、小型犬なら15年近くも生きる生き物です。
本当に終世その世話ができますか?
もう一度問いかけてから決めてください。
そして、飼うことを決めたらまずはドッグシェルターで探してみてください。
商品として売られている犬たちも可愛いけれど、シェルターにも可愛い犬はたくさんいます。
一度は人間に裏切られた犬たちに、貴方自身が人間として、もう一度その犬に生きるチャンスを与えてあげてください。犬は終世その恩を忘れず貴方に「与えることの喜びと充実感」をプレゼントしてくれますよ!

ASDの活動を知りたい方、犬を飼いたいが迷っている方がいらっしゃいましたら、お気軽に私までご連絡くださいね!ボランティア活動に興味のある方も大歓迎です。できる日だけでも構いません。まずは与える喜びに第一歩を踏み出してみてくださいね!




生涯現役?Rod Stewart in Singapore

元々“書くこと”は好きなのですが、その気になると一気に書きだす反面、書かない時は全く書かない・・・およそブロガーに向かない性格ですね。物書きを生業としていたら絶対編集者泣かせになっていただろうと思います。

と他人ごとのように言っていないで・・・はい(反省)。

気がつくとなんと3月。最後の更新は「新年おめでとう」ですから、我ながらいい加減にせーよと言いたくなります。メールを下さった皆さま、忘れないでいて下さってありがとうございます。

さて、週末はウェストコーストの田舎に引きこもりの私ですが、昨晩は久々にお出かけをしました。Singapore Indoor Stadiumで開かれたRod Stewartのコンサートに行ってきました。誰と?いえ、ひとりで・・・はい確かに。目撃者多数ですから(後述)。

遠い記憶では10代のころにたしか親に内緒で武道館コンサートに行ったなぁ・・・などと回想しながら会場に着くと、さすが還暦過ぎたスーパースターにふさわしくそれ相応の年代のファンが集まっていました。直前は大雨だったし、シンガポールで本当に会場埋まるのかと疑った自分を反省。

3週間ほど前に偶然SISTECのウェブサイトで見つけて、ほぼ反射的にステージ真下の2列目という超プレミアチケットを購入してしまったワタクシ。そのエリアはやはり40代以上のファンで埋め尽くされていました。

20年ぶりに見たロッドは相変わらずオーラ全開。
途中、「ボクの21歳になる娘です」と紹介し、娘のRuby Stewartがステージに出てきた時には一瞬引きましたが、ブロンドを追っかけまわしていた悪ガキ・ロッドもいつしかいい大人になったなぁと。

最近のアルバムではアメリカンスタンダードを歌ったりしておとなしくなってしまってつまらないと感じていましたが、年輪を重ねた彼にふさわしい選曲だったのかな、と妙に納得した次第。やはり若いころ、散々やんちゃをやってきた男の方が年齢を重ねると素敵になるんでしょうか。声は全く衰えてないところはやはりすごいですね。自らスーパースターと名乗ってしまう自意識過剰男の若いころより、ステージもシンプル、エンターテイナーかつファシリテーター的気遣いを見せながらのMCも大人の余裕を見せていました。

この手のコンサートで休憩時間があるのには驚きましたが、それも出演者の体力を考えれば当然かも。その合間に「Chiaki san having fun ?」と友人から携帯にメール。前方の巨大スクリーンに数回にわたってノリまくってる私が映し出されたのを目ざとくチェックされていました。あぁこの世間の狭さがシンガポール・・・(汗)。
どうぞ夜9時のニュースには出ませんように・・・(′∀`)

シンガポールはエンターテイメントがない!などと言われますが、探してみると結構あるものです。コンサートも手頃なお値段で行けるし(ロッド最前列から2列目は破格でしたが・・・当面、窮乏生活)、何より結構直前でもチケットは手に入る。終電を気にしなくてもタクシーで帰れるし、日本の都会よりナイトライフは充実しているのでは?

次はバンコクを回って13年ぶりの日本公演だそうです。
それにしても還暦過ぎてもあの迫力。
The Rolling Stonesという上には上もいるものの(!)、生涯現役ってやっぱり凄いと思うのです。
















明けましておめでとうございます

皆さま、明けましておめでとうございます。
昨年も多くの方々から励ましのメッセージをいただき感謝しております。

私のこれまでの経験や日常のささやかな発見を皆さまと共有したい思いで、ぽつぽつと書き続けてきたブログですが、このブログをご覧になって当社とのビジネスに繋げて下さった方々や、メディア取材という方法でより多くの方々へメッセージ発信する機会を作って下さった方々に巡り会うことができました。本当にありがとうございました。

2009年は色々な意味で環境の変化への対応を求められる年になると思いますが、悩みに対する戦略を持って立ち向かえば恐れるに足らずと考えております。

環境、状況が変わり続ける時だからこそ、自分の中にある信念をどれだけ貫けるかが問われると思います。外に目を向ける勇気を持ち続け、内面を客観視できる冷静さを保ちながら、難しいこの1年を迎え撃つ気持ちで過ごしてまいりたいと思います。

「相変わらず強気だなぁ〜」と笑われそうですが、攻めの気持ちを失ったら戦う前に負けちゃいますからね。

今年も皆さま、どうぞよろしく。
皆さまにとりましても実り多い幸せな1年となりますように!


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地球温暖化とシンガポール

前回の更新からなんと2ヶ月半が過ぎてしまいました。
ただいま猛反省中の私です。
言い訳になりますが、とにかくこの2ヶ月半は殺人的に忙しかったのです・・・

6月はお隣のマレーシア(クアラルンプール)とタイ(バンコク)に、そして先々週から先週半ばまで猛暑の東京に出張しておりました。

東京で訪問先に伺う度に「日本は暑いですね」と言って大笑いされたのですが、別に笑いを取るつもりはなく、本当にシンガポールと比べても東京の暑さは格別だったのです。

南国とは言ってもシンガポールは陽ざしこそ強いものの風が吹いていますし、夕暮れ時や早朝は本当に爽やかな風が吹きます。私のオフィスのあるラッフルズプレースは海に近いこともあって、夕暮れ時などは潮の香がすることもあるくらい。オフィスのある26階のバルコニーに出ると朝晩は涼しすぎるほどの風で、あの東京の蒸し蒸しした空気とは全く異なるのです。

省エネはこちらでも課題にはなっているものの、オフィス内は本当に「寒い」ほどエアコンが効いています。朝、出かけて帰ってくるまでスーツのジャケットを脱がない日も多いんですよ。

省エネについては最近こちらでも電車内の広告で政府が呼びかけていますが、シンガポール国民としては「削減といってももともと小国だし、それほどの影響力があるとも思えない」と考えている向きも多いようです。

ただ、先日、Singapore Business Federation(日本の経団連のような団体)の上の方が仰っていましたが、ここの空港はHUBなので24時間3つのターミナルから離発着がある。航空機の排出するCO2だけでもかなりの量なのだそうです。

ということでシンガポールも他国同様、地球温暖化に向けての取り組みは本気でやらなければならないとのこと。

ただ、以前読んだリー・クヮン・ユー回顧録(建国の父・リー・クヮン・ユー)には、建国の際、まず取り組んだのがオフィスの冷房だったと書いてありました。冷房が完備していないため、日中の仕事は効率が落ちていた周辺国を見て、彼はまず国中を冷房完備にしたとのこと。あれから40年余。シンガポールももう新興国ではなくなったということでしょうね。地球全体を視野に入れた経済活動を求められる時代に入ったということなのでしょう。

8月9日は建国記念日。
街中だけでなく住宅地にも国旗が目立つようになりました。
今年の首相のスピーチには環境問題も盛り込まれることでしょう。


献血の日

先日、引越しをいたしました。
で、その準備やら片付けやらでついついブログの更新が遅れてしまいました(なんか言い訳っぽいですね)。

さて、過去数回にわたり「人生のリスクヘッジ」と題して書いてまいりました。まだまだ続くのですが、今日はちょっと面白い経験をしましたので、そちらを優先して取り上げますね。

それは、献血

私は実は献血、好きなんですよ(引かないで下さい)。
なんか良いことした気持ちになるじゃないですか。ボランティア活動というにはあまりにも簡単なことだけど、血液だけは化学をもっても合成できないわけで、輸血を待っている患者さんが大勢いることを考えると健康である者の義務じゃないかとも思えるのです。

まぁ、女性には珍しいぐらい「濃い血ですねぇ、貧血とか無縁でしょ」と献血の度に言われる体質もあり、家族友人には「献血でも行って少し血、抜いてもらってきたら」と笑われるキャラでもあり・・・(恥)

ことの起こりはMRTハーバーフロント付近を歩いていたらドナーの登録を勧められたからなのです。で、その場で予約をし、律儀に先週日曜日、その時間に出かけました。

MRT駅の改札口付近に献血ブースが設置され、おそろいのTシャツ姿のスタッフが大勢働いていました。日本と同じく質問票を記入し、医師の問診を受け、日本よりもう少し簡単な折畳み式のパイプのベッドに横たわります。目の前にはMRTから降りてきた乗客がぞろぞろ行きかい、それをベッドの上からぼけ〜っと眺めているという何とも非日常的なシチュエーション。

愛想の良いマレー系のナースは「今日は母の日だねー、母の日だけど私、仕事してるね。ま、好きな仕事だから嬉しいけどね」と訊きもしないのに一人で上機嫌でお喋り。そのあまりにテンポの良すぎる手先を見て急に小心者になった私。「痛くしないでね、私、初めてなんだから」と、日本では有楽町交通会館の献血センターの常連であったにも関わらず、お手柔らかに〜と心の中で祈りました。

日本と比べてちょっと驚いたのは、献血の針を刺す前に麻酔をするんですよ。細い注射器でほんの少量。でもこれで痛みをほとんど感じずに済みました。日本の献血ベッドには液晶テレビが設置されていたりしてなかなか快適なのですが、痛みに対する配慮の方が本当は嬉しいのかな、など考えながら相変わらずMRT駅を行きかう人の波を眺めておりました。

その後、毎日一錠づつのんでね、と渡された鉄剤のサプリメント。
なんと用意周到なこと!たしか10日分以上ありましたね。
はい、これまた律儀に毎日服用させていただいております。

献血後、ハート型の画用紙に何か一言と求められたので、思わず「日本人の皆さん、シンガポールの献血は“無痛”です!皆さんもどうぞ!」とメッセージを書いてしまいました。

このメッセージを読んで参加してくれる人が増えたら嬉しいな...と思いながら。


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私のキャリア半生記(手段編)

不遜な言い方をすれば、私は「生まれる国は選べないけど死ぬ国は選べる」と思っています。

日本人として生まれたことを誇りに思い、日本は今でも大好きな場所ではありますが、前回のブログで書いた通り「このまま日本にいて幸せに暮らせるんだろうか?」という疑問は現実問題として日々大きくなっていったのです。

そんな時にシンガポール人と結婚した高校時代の友人と会い、シンガポールに何度か遊びに来るようになりました。その前にも銀行勤務時代、上司のお供でシンガポールのMAS(金融庁)に表敬訪問に来たこともあり、シンガポールについては「アジアでありながらビジネスは欧米的(?)」というわりと良い印象を持っていたのです。

新卒から外資系企業に勤めていた自分にとって、コテコテのアジア的ビジネス文化はなじまないものがありましたが、かといって米国留学時代、人種差別をそれなりに経験したこともあって欧米へ一足飛びに就職する勇気はなかったのです。シンガポールには、中途半端に(?)欧米のドライさがあるようなアジアのコスモポリタン都市という漠然とした、しかし良いイメージを持っていたのです。

今でこそ当時ほどには物価は安くなくなりましたが、12年前は本当に何でも安く感じました。

収入−支出=利益の原則はいずこも同じ。ここでなら家が買えるかもしれない。単純に言えばそう考えたのです。海外といっても飛行機で7時間も飛べば帰れるし、インターネットなるものが近い将来、各国間をボーダーレスにしていくとの話も聞いていました(そしてそれはほんの数年後に実現されました)。

思いついたら行動あるのみ、の私は早速、まずは命題「シンガポールで暮らせるのか?」について調べ始めたのでした。期待ばかりが先行し、まだそのインターネットなるものもそれほど普及していなかった1996年初頭のことです。情報を集めるのにとにかく苦労しました。そのあたりは昨年8月12日付ブログ「10年前の海外就職」、9月2日付「シンガポール就職記・その1」、12月16日付「シンガポール就職記・その2」に詳しく書きましたのでご覧になってください。

自分を人材として「売る」ためには、そして数年働いて帰国ではなく場合によってはそれこそ「家を買うまで」シンガポールに残るかもしれない...ならば就職先はどう選べば良いのだろうか? そんなことをあれこれ考えました。今から思うと極めて単純で浅はかな考えではありましたが、自分なりのJustificationをもって考え出したのが次ぎの結論でした。

1. 日本人であることが人材価値のプレミアムになること
2. 国籍にかかわらず昇進の機会があること
3. 日系企業の場合、本社派遣、現地採用との間で任せられる業務にあまり差がないこと


勿論、これに自分のこれまでの経歴が活かされる就職先であることは言うまでもありません。

私は一貫して企画営業の世界にいましたので物販の経験はありませんでした。ですからモノが流通していく流れはまったく理解できるセンスがなく、しかし、お客様のニーズを汲み取って提案してセールスに結び付けていくことは、多少業界が異なっても出来るだろうとの自負がありました。

日系、現地資本、欧米系と面接の機会をいただき、日系2社と現地資本系1社から内定が出ました。

現地資本系と言っても本社がシンガポールにあるということだけで、社長はフランス人でしたし、社内には当時17カ国からのスタッフが働いていましたのでかなり欧米的な社風でもありました。日本人マーケットを担当するマーケティングスタッフが欲しいとのこと。当時、かなりの比率で日本人マーケットのビジネスを手掛けていた会社でした。

ここでなら、日本人であるだけで希少価値を生む。国籍に関わらず昇進できる。
上記、2点は早くもクリアでした。

もっとも、後日わかったのは(骨身にしみたのは)、日本人であることを重宝がられるのは最初のうちだけで後は徹底した実力主義であったこと。昇進の機会が平等であるということは、英語のハンディなどおかまいなしに業績査定も手加減なくされるシビアな環境であること、でしたが。

当時、33歳。マーケティングエグゼクティブ(こちらではマーケティング担当、ぐらいの意味)での募集でしたが、面接最後にやる気と多少のはったり(?)でアシスタント・マーケティング・マネジャーとして採用されました。初任給、3500ドル。残業手当なし。当時のレートで換算すると22万5千円ぐらいでしょうか。どれだけ働いても3500ドル、というわけです。

日本では、その直前に旅行会社で企画営業をやっていました。旅行会社というのは業界的にそれほど給与レベルは高くないのですが、それでも単純比較すればかなり減りました。旅行会社の前は外資系証券会社でしたから、その水準と比較すれば雲泥の差です。

しかし、あまり気になりませんでした。
そんな比較自体がナンセンスであることを知っていたからです。

(次回に続きます)

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ラジオに登場!

昨日、シンガポールの日本語FM局で対談番組の収録をしてきました。
シンガポールにはなんと日本語FM局があるのですよ。

シンガポールとその周辺国の日本語電話帳や生活情報紙を発行しているCOMMプライベートリミテッドという会社がやっていらっしゃいます。この会社を興した森氏は、海外引越や広告業、レストラン経営など海外で暮らす日本人が求めるサービスを早期に発見され、今やその多角経営ビジネスでシンガポールでは最も成功されたビジネスマンと言える方でしょう。彼のブログ、「オレ森だけど聞きたいことある?」にはそのダイナミックな半生が面白く語られています。

そんな森会長との15分対談。
気さくなお人柄ですし何度もお目にかかっていますので対談自体の緊張はなかったのですが、それにしてもあのOn Airと書かれたランプのあるスタジオ、やはり普通の人間にとっては異空間ですよね。幸い生放送ではないので、最悪トチったら技術担当の方に泣きついて修正、編集していただこうと腹をくくり、いざスタジオへ。

「朝の番組だから明るくさわやかにいきましょうね」という森氏の言葉に従って、午後3時なのに「おはようございま〜す」と始まりました。ああ、昔、イーストコーストに住んでいた頃は車でECPを走りながら通勤途中にこれを聞いていたんだな...と、通勤途中の方々を思い浮かべながら思い切りさわやかな声を出したら、ちょっと上ずったかも。

森氏による紹介から始まり、まずは会社のこと。
数ある日系人材紹介会社の中にあってプライムサーチインターナショナルとしての特徴を申し上げました。
マネジャーポジションを目指す方とホテル、レストランなどのホスピタリティ産業に重点を置いたご紹介を行っていることなど。

その後、私の以前の会社の東京勤務中に体験した捨て犬保護活動のボランティア、そしてアメリカの事例からのちょっと面白い話(全部はここでは書きませんよ〜、先のお楽しみということで)。

私が勝手に自分への応援歌としている竹内まりやさんの曲も紹介させていただきました。
私は本来はクラシックとジャズ派。で、日本の歌になるといきなり演歌派になるのですが、日本語番組でジャズを朝から聴くのもねぇ...ましては朝からこぶしの利いた演歌はないだろうと思い、大好きな竹内まりやさんになったわけです。

それにしても森氏の語り口のお上手なこと。うま〜く私の話したいことを引き出して下さり感謝、感謝。
日頃、インタビュー(面接)をする側なのですが、たまにはこうしてインタビューされてみるのも面白いですね。

シンガポールにいらっしゃるかたは是非お聴きになってみてくださいね。
3月10日(月) 朝8:15〜8:30 
FM96.3 
インターネットを使ってもお聴きいただけますよ

http://www.international963.sg/webradio.asp?varKey=01032885010


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シンガポール住宅・引越し事情(その3)

前回からの続きでいきますね。
1999年の前半に長期の東京出張を命じられました。実際には8ヶ月程度でシンガポール本社に戻ったのですが、当初は最長1年の予定だったのです。

アジアの経済危機の時代で景気が悪くなることの不安はありましたが、不動産市場が下落してどうにかひとりでコンドミニアムを丸々一戸借りられるという嬉しい時期でもあったのです。

せっかく手に入った「丸々一戸」の暮らしを手放すことに抵抗はあったのですが、とにかく湿気の多いこの国で何ヶ月もエアコンを使わずに部屋を放置するなど考えられない。帰ってきた頃にはクローゼットの中がカビだらけになっているかも...それに何より住んでいない部屋に大枚を払うなんて!いくら安くなったからと言っても一戸丸々借りれば間借りしているより高くつきます。

そんなときに当時の同僚の日本人女性が「じゃあ、うちに来ない?大きな家の一間を借りてるんだけどマスターベッドルームが空いてるのよ」と嬉しい情報。

早速次の週末に出かけてみるとそれはUpper East Coast Roadのさらに先、East Woodと呼ばれる住宅地にありました。でもバス停まで徒歩2分。バスに乗ってしまえば乗り換えなしでシティホールの勤務先まで30分ぐらいで着きます。シンガポールは朝晩のラッシュアワーには一般車はバスレーンに進入してはならないという規則があるので、乗用車よりバスのほうがスイスイ進んだりするのです。

二連長屋のような作りですが、一戸一戸が巨大。玄関を入ると30畳ぐらいのリビング、階段を上った中二階にその部屋はありましたが、実はマスターベッドルームと呼ばれる主寝室はそのさらに上の階だったのですね。そこにはジャグジーつきのバスがあって大家さんご夫妻が暮らしていました。私のいるフロアは所謂中二階で他の部屋はなし。階段の踊り場にあるドアを開けるとその部屋につながっていました。

ドアをあけると15畳ぐらいのかなり広い部屋。右奥にバスタブと独立したシャワーブースがあり、バスルームの前の壁一面が収納です。今では1500ドルぐらいはかかるのでしょうか。当時は公共料金込みで700ドルでした。

私の同僚はそのさらに2階上の階の少し小さめ(それでも8畳以上は充分にある)の部屋に暮らしていました。最初は私の部屋にいたそうですが、シンプルライフの彼女は小さい方が落ち着く(本音は掃除も楽!)、だから家賃もその分安くして欲しいと交渉したそうです。

私は結局その部屋に引越し、大家さんのお人柄が信頼できそうだったので、不在のときには鍵を開けて週1回エアコンを1時間ぐらいかけて除湿してもらうことをお願いして出張先に戻りました。その後は2ヶ月に一回ぐらいシンガポールに戻って数日本社で働いたらまた東京に出張するという生活を続けていました。

ホームステイみたいに見えますが、実際には大家さん家族とはほとんど接触なし。門限もないし、居ようが居るまいがお構いなしという様子でした。洗濯だけは階下の大家さんの洗濯機を借りていましたが、バスルームが広いのでそこに干していましたね。キッチンは使えませんでしたが冷蔵庫は同僚の彼女と私で一段貰っていました。でも、手頃に外食できるし、部屋に湯沸しポットだけ置いておけば特に困りませんでしたね。

よく、大家さんや他の入居者がいることで抵抗があると言われるのですが、こちらの暮らしでは割と当たり前のことです。特に今のような家賃の高い時期は、フラットシェアをしたり大家さん同居の住宅の一間を借りたりしたほうが賢明でしょう。玄関と自室の鍵を渡され、あとは勝手にどうぞ、という感じです。同じ屋根の下に住んでいる同僚とも会ったり会わなかったり。朝もお互い自分の時間で出勤しますから、たまにバス停で会って「あれ、戻っていたの?」と言われたり。

不動産市場は高騰しているのはほんの一時期で低迷している時期の方が長いのです。
前回お話ししたように、礼金もなく敷金も1ヶ月(たいてい全額返金されます)、引越し屋さんも安いのですから、再び家賃が下がる時期が来たら積極的に動くぐらいの柔軟な考えでいったほうがストレスにならないと思います。




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