前回の“人生のリスクヘッジ”では、どうして私が東京オフィスへ出向したのか、というところまで書きました。そこまでを読めばまさしく順風満帆の会社員人生であったわけです。しかし運命とは気まぐれなもので、その先の展開はかなりドラマチックでした。

東京での仕事は厳しいものでした。競合他社を吸収合併した直後でそれぞれの会社の社員が混在する環境でした。私の役割は3つありました。

ひとつは重複する顧客との契約内容を合理的に整理し、それにしたがってオペレーションのフローを構築し直すこと。競合他社を吸収したのですから当然お客様も重複しています。まずはそれぞれの契約内容を整理し、お客様に対しては合併によってお客様側のメリットは増えこそすれデメリットは生じないことをしっかりご説明しました。実際のところは社内の混乱により(ちなみにこの合併は1か月前に突然の発表という形で知らされました。私が上司からそれを聞いたのは発表の前日でした)トラブルが発生しがちな状況だったのですが、合併の混乱を理由に他社に契約を乗り換えられないよう、内心は冷や汗をかきながらも冷静を装い続けました。お客様の会社のビルから出た後、「あ〜、あんなに大風呂敷広げちゃったけど本当に大丈夫なのかな・・・ま、大丈夫にさせるのが自分の仕事なんだから!」と気を取り直してオフィスに戻る。その繰り返しでした。

合併後は外部から新しく日本支社長を採用する予定でしたから、その時点では支社長の席は空席。GM代行という肩書で赴任したのが私ですから、自分が第一線に立って動かなければなりません。昼間はお客様を訪問して説明にあけくれ、夜は整理された契約内容にしたがって新たなオペレーションフローを構築するために現場のスタッフと協議を重ねました。

二つ目は社員のリストラ。合併後の会社としての契約内容が更改された時点で契約高やオペレーションコストも明確になってきます。損益分岐を見定めた上で何人のスタッフを解雇しなければならないかを試算します。シンガポール本社ではしっかりした業績査定システムがあったのですが、東京オフィスでは全く機能しておらず、上司との面談でなんとなく次年度の年俸が決まっていたようでした。そうした中で育ってきた社員が人事考査というシステムを正しく理解し、カルチャーの変化にソフトランディングできるよう心を配りました。一人一人時間を取って呼び出し、人事総務・経理部長同席のもとでレビューを行いました。目標設定がそもそも曖昧だったのですから、客観的な業績査定を行うことにはかなりの無理がありましたが、いくつかの客観的ファクターを除いては本人のプロ意識、今の会社の状況を自分なりにどのように捉えているか(そこである程度その人の状況判断力、戦略立案力がわかります)の点に絞って判断しました。同時に次年度の目標設定と今後のキャリアパスについての希望を聞きだすよう心がけました。

最終的に10名程度のスタッフに退職していただくことになりました。「私の後に着任する新しい日本支社長とともに戦える相手であるかどうか」も重要ですから、会社へのロイヤリティがあまりに欠けており、断片的な情報をもとに自分勝手な会社批判をする方はやはり辞めていただくより他ありませんでした。突然本社よりやってきて、こうした決断を下した私を個人的に恨む人も一時的には生まれました。リストラになった部下を持つマネジャーが夜中に抗議の電話をしてきて朝まで話し合ったこともあります。夜中12時過ぎにオフィスから自宅に戻るタクシーの中で思わず涙が出たこともありました。それでも、私が会社の置かれている状況を末端の社員にまできちんと伝え、会社の今後のビジョンをはっきりと描き、その上で一緒に頑張ってほしいというメッセージを発信すると、受け止めてくれたマネジャーの何人かが業務上も精神的にも支えてくれ、ありがたく感じました。記憶に残るのは50代の経理マネジャー。娘のような年齢のGMだったにも関わらず、立場を尊重してよく協力して下さいました。二人きりになると「川村さんも辛いね、でも正しいことをやっていることは私はわかってますよ」と言ってくれました。

三つ目はキャッシュフローの改善でした。合併先の会社はかなりワンマン社長で仕事に情熱はもっている方でしたが、その反面、冷静なビジネスとしての分析はかなり甘く、社長が懇意にしているお客様には損益分析もせずにサービスを提供していたり、売掛金の回収が長期間できていなかったりもしていました。お客様全社に対してのクレジットリスクをはっきりさせ、支払期限の厳守を徹底しました。同時にお支払いただけてない先には自ら出向き交渉しました。とにかく逃げない、汚れ役は自ら買って出向く。それが自分のモットーでした。

赴任直後の月半ばに経理のマネジャーが「川村さん、今月、これだけ足りません」と言ってきてショックだったのを覚えています。それまでは足りなくなれば本社から送ってもらってたそうで、そのやり方に慣れている社員に「プライドを持ってください!」と檄を飛ばしたことがあります。私は自分がGMをやる以上、今後、一度たりともそういうことがあってはならない、そうでなければ東京はいつまでも自立できないと告げました。「本社に対して注文をつけるなら、自分たちの身仕舞いはしっかりやってください。自分たちがとってきた契約は最後まで責任を持ってください。入金が確認できなければその仕事は完結していません。契約金額だけ上積みしてもキャッシュフローが回らなければ会社は潰れます」とことあるごとに言いました。でもその結果、社員全員が会社全体のお金の流れを意識する感覚を持つようになり、コストセンターである総務・経理・人事などの社員もコスト意識をもって仕事をするようになりました。営業ばかりが稼いでくるのではない、自分たちも無駄をなくし、外部業者と交渉するときにはできるだけ有利な条件を引き出すことにより会社に数字上の貢献もできるのだ、という理解が生まれたのでした。全員の協力に支えられキャッシュフローは大幅に改善し、私の東京勤務期間で本社に「お願いコール」をしたことは一度もありませんでした。

8月に赴任し5ヶ月目になったころ、東京の次期支社長が決まったとの連絡がありました。私はもともとシンガポールを離れるつもりはなく、半ば会社に頼まれてやってきたのですからこのニュースは朗報でした。引き継ぎマニュアルを作成し、果てはその方のデスク回りの備品にまで心を配って万全の体制でお迎えできるようにしました。シンガポール本社に出張した際に一度お会いし、東京でも何度か夕食をともにしながらこの半年間の状況を整理してお伝えしました。

人事発表があってから2週間後、私は突如、本社の上司に呼び戻されました。
「早く戻ってきて。私と一緒にグローバリゼーションプロジェクトをやりましょう」
私はその話に浮足立ちましたが、後で冷静になってみると何か不自然な様子がありました。

赴任した時もバタバタでしたから引き上げる時もバタバタであろうことは予想していましたが、月曜日に電話がきていきなり1週間後に戻って来いというのはあまりに不自然でした。新社長をお客様に紹介してから戻りたいと言うと、「それはまた来月に再度東京へ出張してやってくれればいいから」と。なぜ、そんなに急なのかと訊くと「東京からのお客様のベトナム視察に同行してほしい」。たしかにベトナムは担当市場でしたから様子はわかりますが、それは私以外でもできる人はいました。

とにかく訳がわからないだけに直接会って話を聞こうと思い、素直に帰国準備を進め1週間後に本社に戻りました。

シンガポールに戻った2日後にお客様を連れてベトナムのホーチミンシティに1泊2日の出張をしました。そして翌日、シンガポールのオフィスに出勤するとITのマネジャーが私のラップトップPCを預かりに来ました。時は1999年の年末。ミレニアム問題でIT関係者がかなり神経質になっていた時でしたから、何の疑いもなく渡しました。

その日の午後5時過ぎ。周囲のスタッフがそろそろ帰り始めた時、私は取締役の部屋に呼ばれました。広いその部屋には私の上司、人事のマネジャー他、何人かのキーパーソンが並んでいました。取締役は東京での私の仕事ぶりに最大限の賛辞を述べた後、ゆっくりとしかしはっきりとした言葉で言いました。

「東京へ転勤してほしい」そして、そのあとに続く言葉は衝撃的でした。
「現地採用として。君のポジションはもうシンガポールにはない」
数日前に呼び戻され、マンションを解約し引っ越し荷物を送ってしまってからの宣告。何が何だかわかりませんでした。シンガポールの現行給与をそのまま円換算し、今度は住宅手当も駐在手当もないということです。私の業績になにか不満な点があるのかと訊いても「君は素晴らしかった」の繰り返し。先ほど取り上げられたPCの中をチェックされても困るものなど一つもない。いったいなぜ・・・

取締役は目の前に一通のレターを出し、「その条件に合意してくれるのであればここにサインしてほしい。回答期限は今月の15日まで」。私は朦朧としながら「では、それに合意しなかった場合は?そもそもこういう展開になった理由は?」と訊くと、「合意しなかった場合は残念ながら退職してもらう。ただ、会社の組織変更によるものだから退職金は給与の3か月分を出す。東京での業績評価に応じた報酬も出すつもりだ」。

時は金曜日の午後5時過ぎ。私は翌週から2週間休暇を取って旅行する予定でいました。本社での仕事再開に備えて英気を養っておきたかったからです。東京では連続して11週間週末も含めて一日も休んでおらず、有給はいくらでも残っていました。その日はとりあえずそのレターを貰ってサインはせずに帰宅しましたが、悔しくてそしてそれ以上に何が何だかわからなくて、旅行先のペナンに向かう飛行機の中、泣きどおしだったことを覚えています。

ペナン滞在中に回答期限の15日が来ました。このまましがみついて東京に転勤しても先は見えている。ならば自分で幕を引こう。金曜日の夜、知人を通じて弁護士にも相談しましたが、日本で言うところの労働基準法はこの国では存在せず、ホワイトカラーの雇用を保護する法律はないことを知り、絶望的な思いになりました。

自分は会社にとって捨て駒だったのか?新GM着任前に体制を整えるため、リストラも含めて汚れ仕事を一身に請け負うだけの存在だったのか?東京のオペレーション機能強化も果たした今、シンガポールから東京にベースが移るというのはある意味道理のある話。では、なぜ実質給与ダウンになるような雇用条件を提示してきたのか。

そんな思いを巡らせ悔し涙が枯れるころ回答期限が来ました。朝、ホテルの部屋でサインをし、ビジネスセンターからFAXで送りました。36歳と9か月、独身、女性。晴れて(?)異国で失業者となりました。

リストラに至った原因は入社後間もなくして退職された東京の新GMによる一方的な意見だったそうで、退職後半年ほどして事情がわかりました。私が入社したときは世界中で600名程度の社員数だったのに、この時期に買収を繰り返して急激に拡大したのです。そんな時期にはいろいろなことが起こるわけです。

その後、当時の人事マネジャーより戻ってこれないかという打診もいただきましたが、後ろ髪を引かれながらも人生に後戻りはないと言い聞かせました。好きな会社だっただけに尻尾を振りたいのはやまやまでしたが、やはりもう少々突っ張っていないと自分が保てない状態だったのかもしれません。

ただこの1件を通じて、欧米系の会社の優先順序はやはり「まず組織ありき」なんだなと思いましたね。一概には言えませんが日本企業のほうがその点、人間味のある対応をしているように思えます。どちらがいいとは言えないし、やはりこれはその人と社風との相性なんじゃないかと思いました。

退職して3か月後、この東京赴任以前に声をかけて下さっていたヘッドハンティング会社に入社し、晴れて今があるわけですから、長い目で見ればこの時点でリストラになって良かったのですが、私はこの経験を通じて会社との向き合い方、自分の人生の舵取りの仕方を学んだような気がします。


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