国際都市シンガポールで暮らすコンサルタントの異文化日記

アジアの玄関シンガポールに暮らして20年余。 海外就職→転職→日本(逆)駐在の波乱万丈を乗り越えてシンガポールに経営コンサルティング会社を設立。 異文化というAWAYでの戦いを日々楽しんでいる日本人女性経営者の異文化日記です。

ごめんなさ〜い!

いきなりの謝罪でございます、皆様。

ブログを書き出したのはいいけど、全然コメントが来ないな〜、と嘆いておりました。で、そのうち更新する努力も日々薄れ。。。

で、目先を変えたら読んでいただけるかも、などとデザイン変更という小手先のワザを使ったりしているうちに、ライブドアブログの新たな機能(?)を発見。

実は皆様、コメントをお寄せいただいていたんですね。

筆者がそれをチェックする方法を知らなかったんですね。

ああ、なんたる不覚。
ちょっとショックで眠れません。

コメントをお寄せいただいた皆様、ありがとうございました。
この場を借りてお詫びを申し上げます。
順次、お返事させていただきますので、このブログ、そしてWEB関連作業に極端に疎い私をお見捨てなきよう。。。(涙声)

と、久々の更新が「ごめんなさい」メッセージになってしまいました。

う〜ん、読んでいただいているとわかると俄然やる気が湧くぞ!

これからに期待していてくださいね。

ホームページついに完成!

またまたブログの更新が遅れておりまして申し訳ありません。

でも、今日は嬉しいお知らせがあるのです。

筆者が代表を務めるプライムサーチインターナショナルのホームページがついに完成いたしました。

http://www.primesearch-i.com


プライムサーチインターナショナルはシンガポールに本社を置く人材サーチ会社です。

シンガポールおよび周辺国への転職を幅広くサポートしてまいります。

ここで多くを語るより、まずは上記のURLをクリック。
美しいシンガポールの写真とともに、当社が何をご提供できるかをお確かめ下さい。
そうそう、筆者の顔写真も載っています。→あっ、ここはサラっと流して下さっても結構です(笑)。

お問合せはお気軽に。

今すぐ海外就職の予定がなくても、「自分はシンガポールという国で仕事ができるんだろうか?」「どんな人が求められているの?」そうしたご質問だけでも大歓迎です。

私たちのミッションステートメント(企業目標とでも言いましょうか)は、
「プライムサーチは貴方の踏み出す勇気を応援します」
なのですよ。 


まずは行動を起こしてみる。
それが視界を広げる第一歩なのです。

応援してください。
プライムサーチインターナショナルです。

「誰も行かないところには誰かがいかなければならない」

祝日であった10月8日、東京・乃木坂の青山葬儀所は静かな秋雨に包まれていました。

ミャンマー軍によって殺害された日本人ジャーナリスト、長井健司さんの葬儀が、APF通信社による社葬という形でしめやかに執り行われました。前日に知った私はどうしてもお花を手向けたくなって、帰省予定を変更して静岡の実家から早朝、新幹線で駆けつけました。

報道陣が詰め掛ける中、オレンジ色の袈裟を着たミャンマーのお坊さん、ロンジーという腰巻風の民族衣装に身を包んだ在日ミャンマー人の多くの方々が多数参列していました。

定刻11時に到着したのに祭壇のあるメイン会場は満席。予備会場に通され、その後、メイン会場に移動を促されたのですが、なんとこれが前から2列目。隅っこでひっそり参列するつもりだった私は黒のTシャツにジーンズという極めてカジュアルな格好で喪服姿の参列者の中で浮きまくりました(汗)。

すぐ前には弔辞を述べるジャーナリストの鳥越俊太郎さんや田丸美寿々さん、ニュースキャスターの村尾信尚さんやパレスチナやミャンマーで長井さんと取材活動をしたというフォトグラファーの嘉納愛夏さんがお座りでした(「これは夕方のニュースに映っちゃうな〜」と赤面)。

祭壇は白菊だけでなく、明るい色の胡蝶蘭やデンファレで埋め尽くされ、南国で息を引き取った故人を偲ぶかのようでした。遺影の長井さんははにかんだような表情。「僕は撮る側の人間であって撮られる側の人間じゃないよ」とでも言いそうに。

APF通信社の山路徹代表が葬儀委員長を務めていました。
かつては長井さんと一緒に紛争地帯の取材を飛び回った仲であったそうです。
現地で遺体に真っ先に対面した山路氏は、「長井さん、貴方の右手は最期までビデオカメラのグリップを握ったまま、そのままの形で硬直していました」と語りました。死んでもカメラを放さなかったそのジャーナリスト魂に心からの尊敬を示され、「私たちはこの辛い現状を乗り越え、必ずその真実を伝えるために前に進んで行かなくてはならない」と締めくくられました。「誰も行かないところには誰かが行かなくてはならない」それが長井さんの口癖であったとも。最近、50歳を迎えた長井さん。「50にもなれば普通は現場を離れて管理の方向に行く。でも、長井さん貴方は死ぬまで現場で取材を続けたいと言っていましたよね」と。

田丸さんは例の穏やかな声で、「長井さん、おかえりなさい」と弔辞を始め、「以前、私の番組でタイのエイズ孤児院の報道をお願いしましたね。長井さんは子供の体調が悪い時には遠くからひっそりと撮影し、体調の良い時は至近距離で話しかけながら撮影するという気配りのできた方でした」と語られました。

ともすればジャーナリズムの名の下に土足で取材対象に踏み込んでいくジャーナリストの多い中で、そのエピソードは長井さんの人柄を示す印象的な一言でした。

私は式の間中、ずっと長井さんの遺影を見つめていました。
この人の報道のおかげで平和な日本にいながら多くの世界の現状を知ることができたことに感謝しました。そして、「無念だったでしょうね。もっと撮りたかったでしょうね、もっと世界の現状を多くの人に知らせたかったでしょうね」と思うと涙が出てきて止まりませんでした。

覗き見趣味的なテレビ番組に辟易していた私は、既に日本には真のジャーナリズムは無いと思っていました。しかし、まだこういう日本人ジャーナリストがいたんだと思うと、どこか救われた思いもしました。

在日ミャンマー協会の方は、たどたどしい日本語で「長井さん、今、貴方は銃弾に倒れましたけれど、ミャンマーの民主化が実現したその時には長井さんはミャンマーの英雄になります」と遺影に向かって語られました。

文民、それもジャーナリストを軍が射殺して国際世論が黙っているとは思いません。
当初、流れ弾に当たったなどというふざけたコメントを出したことも強く非難されることでしょう。何よりもあの失われた最後のテープ。それが多くの真実を語ることに間違いはないでしょう。日本政府は長井さんの死を重く受け止め、即座にミャンマーに対して毅然とした主張と要求をすべきだと思います。

焼香を済ませ、会場出口で山路代表とご両親にご挨拶しました。お父様は車椅子に座っておいででした。「以前、仕事でミャンマーをよく訪れていた者です。本日は旅先から駆けつけましたのでこのような格好で申し訳ございません」と山路代表に言うと、「いえ、とんでもございません」とご丁寧にお返事されました。事件から10日あまり。ほとんど寝てないだろうなと思うほどやつれていらっしゃいましたが、テレビで聞く通りの落ち着いた思慮深い声の方でした。

最後に長井さんのお顔を見る機会をいただきました。
白菊を棺にそっと入れ、お顔を覗き込むとそれは穏やかな表情で眠られていました。

出棺の時、流れた曲はジョン・レノンの「イマジン」。
あまりにもふさわしい曲でしたね。
You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one...

そう、それは長井さん一人ではないはず。
国も国境も越えて人類がひとつになることを夢見るのは。

長井健司さん。
貴方という方にこうして出会えたことに感謝します。

長井さん、貴方は決して死んでなんかいないでしょう。
今もビデオカメラを握り締めて、世界のどこかを飛び回っておられることと思います。

かつてよく訪れていたミャンマー。
あの時の平和な静けさは実は抑圧された静けさであったのかもしれません。
軍政権の恐怖政治と抑圧から解放され、真の笑顔がミャンマーに戻る日まで、私たちは長井さんの死を忘れずに生きていきたいと思います。

長井さん近影

ミャンマーに寄せる思い

ミャンマーの首都ヤンゴンで取材中だったジャーナリスト長井さんが軍によって射殺されました。最期までビデオカメラを離さずに息を引き取ったその姿に不屈のジャーナリスト魂を感じた人は多かったことでしょう。

シンガポールで最初に勤めた医療サービス会社で、私はアジア太平洋地区のマーケティングを担当していました。医療水準の低い国で在留外国人への医療サービスを提供する会社でしたから、当然、出張先は「生水の飲めない国」ばかり。ミャンマーにも10回近く訪れたことがあります。

ヤンゴン市内のインヤレイクという静かな湖のほとりにあるインヤレイクホテル(当時の名前)の敷地内に勤務先が直営するクリニックがありました。ここで欧米人医師とミャンマー人医師が協力して企業会員の駐在員に対して欧米諸国水準の医療を提供するのが事業内容でした。

出張は2泊3日程度の短いものが中心でしたが、一度、出張中にJICAのミッションの方々がお越しになるとのことで1週間以上滞在したことがあります。夕方6時ごろに仕事が終わると長い夜が始まります。インヤレイクホテルに滞在していましたから、クリニックからわずか2分で部屋に戻れてしまい、そこからはNHK衛星を見るしか過ごし方がないのです(それも2時間時差なので夜10時には終了)。

街中で英語は通じないし、公道からかなり深く入った森の中にホテルがあったので容易に外に出ることもできず、全くの軟禁状態(あの勇気ある女性と同じ環境に身を置けたことはある意味光栄?)。そこで、思い切ってホテルにガイドとリムジン(といっても普通車)を用意してもらい、夕方からヤンゴン市内観光に出掛けました。1998年のことです。ガイド料と車代で25ドルでした。ミャンマーの物価から言えば大変贅沢な値段になります。

政府からの許可証を胸につけた28歳の青年がガイドとして迎えに来ました。
まず、向かったのはスーレーパゴタ。長井さんも死の前日に撮影された場所です。夕方のヤンゴンは帰宅途中の人で混んでいましたが、それでも日本や周辺諸国に比べればのんびりとしたもの。車もそれほど多くはありませんでした。

スーレーパゴタは市内の中心にあり、仏教徒が大半を占めるヤンゴン市民の心の拠り所といった存在。入り口で靴を脱ぎ、建物内に入ります。仏像のある建物を取り巻くように回廊があり、パゴタでは必ず時計と逆周りに回らなくてはならないそうです。足元をヤモリがたくさんチョロチョロしていましたが、不思議と気にならなかったのはその荘厳で神聖な雰囲気に圧倒されたからでしょうか。

印象的だったのは、帰宅途中の家族連れ、恋人同士が静かに祈りを捧げていたこと。
両親の横にちょこんと子供も座り、静かに仏像に向かって拝んでいたのが心に残りました。決して豊かとは言えない日常生活の中で、仏に、自分の心に向き合うゆとりを持って生活しているミャンマーの人達。物質文明に囲まれた先進国で忘れてしまっている謙虚で清貧な生活。仏教徒ではない私も、思わずひざまずき手を合わせてしまいました。

その後、ガイド君は湖に浮かぶ客船に案内してくれました。レストランになっているそうなのですが、なぜかこの日はお休み。ということで、わざわざ車を降りて定休日のレストランの外側を観に行ったというちょっとおマヌケな展開。

今から10年近く前ではありますが、首都ヤンゴンと言っても電力供給が充分でなく、街全体が薄暗かったことが印象的でした。

正直、あまり観光するスポットは無かったヤンゴン。しかし、一生懸命、英語でミャンマーの歴史を含めて説明してくれるガイド君の姿が思い出に残った数時間でした。

最後に「これチップだから受け取って」と10ドル札を差し出した私に、ガイド君は「お金は規定料金を貰っています。だからこれは受け取れない」と固辞。「いいじゃない、感謝の気持ちなんだから」と言うと、「僕は政府公認のガイドです。これを受け取るのは倫理規定に反します」。

ともすればチップをねだってくる国にばかり出張していた私にとってはちょっとショックにも近い感動を覚えました。

もっと勉強して優秀なガイドになる。ガイドの仕事ぶりで外国人客はミャンマーを理解してくれるかどうかが分かれる。だから、この仕事に誇りを持っている。日本人のお客さんが増えたら日本語も勉強したい。そんなことを熱く語ってくれました。

あれから9年。今、彼はどうしているだろうか、と長井さん関連の報道番組を見ながら思いました。愛国心に満ちた彼のことであるから、もしかして民主化運動に早々と身を投じているかもしれません。生きていて欲しい、そしてあの静かで穏やかなミャンマーに日本人のお客さんが多く訪れて、その前で誇らしげにガイドをしている彼が見たいと思いました。

寺院からのお経の響きと藍色に染まった空に浮かぶ月。祈りを捧げる家族連れ。素足にひんやりと伝わるスーレーパゴタの石の床。

長井さんの死でミャンマーという国に対して日本人の目が初めて向いたのではないかと思います。平穏に見えて実は軍事政権で自由と人権を取り上げられた国、ミャンマー。どの取材先においても平和を欲する人々をカメラで追い続けた長井さんは、その死を持ってこの国の平和運動を推進させる貢献をなさったのではないかと思います。

丁度、日本の実家に戻ってきていたこの週末、明日8日に青山葬儀所でお葬式があることを知りました。三連休を実家で過ごそうと思っていましたが、明日の朝、上京し参列することにしました。その後は北品川のミャンマー大使館前での民主化の呼びかけに参加しようと思います。

ミャンマーのために。そしてあのガイド君の将来のために。


シンガポール就職記・その1

10年前、1996年当時のシンガポールでの就職の話に戻しますと。。。

当時はまだ2-3社しかなかった日系の人材紹介会社の2社に問い合わせ、ゴールデンウィークの休暇に履歴書の束を抱えてシンガポールに面接にやってきたわけですが、紹介された先は日系企業、それも金融が多かったと記憶しています。

これは新卒で外資系証券会社に長年勤めた経験を直接買われた結果なのですが、証券会社で機関投資家を相手に外国債券のセールスをやった経験が、日本の銀行(さ○ら銀行とか東○銀行のシンガポール支店)といった商業銀行業務に直接活かせるわけでもなく。。。金融と業界でひと括りにしても、全く仕事内容は異なるわけで正直、戸惑いながら面接を受けていました。

そんな中で唯一、シンガポールで設立された医療アシスタンス会社のマーケティングの仕事があるとのこと。会社の名前は聞いたこともないし、設立されてまだ10年も経っていない若い会社でした。

「何やってる会社なんだろうなぁ」
そんな思いで面接に向かいました。当時はインターネットなどなく、事前に会社のホームページを見ることなどできなかったのです。

面接に出てきたのは直接の上司となる30代の日本人女性(私より若干年下)。
医療アシスタンス会社というのは、海外旅行中、駐在中の外国人の医療面でのアシスタンスを提供する会社で、日本人と関係する部分では、海外旅行傷害保険の24時間コールセンター業務があります。つまり、海外旅行傷害保険の小冊子に「旅行中、病気や怪我をしたらここに日本語で電話してください」と書かれているあの緊急センターです。

その会社は24時間体制で日本人や日本語が話せる現地人オペレーターを抱えコールセンター業務を損害保険会社に提供すると同時に、全世界から来る海外駐在中の法人会員に対しても同様のサービスを法人契約で提供していました。

私はこの会社の日本法人部で日系の企業会員を対象に医療アシスタンスサービスの法人プログラムの推進をする、というのがその職務内容でした。

証券会社で生保や損保の国際投資部の運用担当をクライアントに持っていたとはいえ、当時はそうしたアシスタンス会社など日本に無かったため、直接の業務経験は持っていません。しかし、相手のニーズを汲み取り、自社のサービスでなにができるか、という提案型の営業は長年やってきたものでした。

わかりにくい金融商品をわかりやすい資料にまとめてプレゼンテーションをしたり、ということもやっています。ならば、扱う商品が変わるだけでそれほど大きな違いはない。

「経験者優遇」などとあると、つい同じ業界の出身者でなければならないような錯覚を抱きますが、「経験」の定義にはいろいろあるとこの時学びました。つまり、経験には業界知識などの「ハードスキル」だけではなく、知識・経験の応用力、資質などの「ソフトスキル」も充分対象に入るのです。

私は証券会社7年、旅行会社の営業本部で2年というキャリアでしたが、一貫して携わっていたのは「目に見えないサービスを売る提案型営業」でした。カタログを広げてどれにしますか、ではなく、相手のニーズを汲み取り、そこから何が提案できるか、提案内容をまとめて相手にわかりやすく説明し営業に繋げる。そうした仕事を一貫してやってきたことに気付いたのです。

であれば、単に同じ金融業界というだけで銀行を選ぶより、こうした発展期にある未知の業界で力を試したほうが面白い。

数年で帰国するつもりはなく、本当にこの国が気に入ったら永住権を取って長期的に根を張りたい気持ちもあったことから、撤退のリスクがある外資(この場合日本企業)よりも、シンガポール資本の会社の方が受け入れ先として安心感がある、というのも理由でした。あと、当時の話ですが、お給料も日本企業でのアシスタント業務よりも責任を持たされる分、かなり良かったことも事実でした。

転職するにあたり重要なことは、自分が何をやりたいかを見極めることと同時に自分の活かし方、つまり市場価値を正確に認識すること。それは同業界での転職に限らず、こうしたソフトスキルの応用できる範囲がどこまでか、を知ることだと思います。

ヘッドハンターになって思うのは、様々な業界を渡り歩いていても、そこに一貫した「自分の活かし方」が読み取れれば、それは単なるジョッブホッパーとは違います。私の例で言えば、一貫して「サービスを売ってきたこと」がそれにあたります。

以後、人材ビジネスに進んだわけですが、ここでも採用企業、候補者両者のニーズを汲み取り提案するコンサルティング、提案型営業をしていることに変わりはありません。

職務経歴書を書く際に、業務経験は業界経験より幅広いものである、という視点で書いてみると更に選択肢が増える結果となることと思います。



May I Help You ? と言う政府

c2a87d7e.jpg日本滞在中にシンガポールのオフィス宛に政府それもMinistry of Manpower (MoM)から調査書類が来たとの連絡がありました。
ここは直訳すれば人材資源省とでも言うべき省で、人材紹介業のビジネスを始めるにあたって認可をいただく元です。

日本事務所に早速、転送してもらいました。 
「何だかな〜、色々調べられるのかな〜」
別に調べられて困ることはないのですが、どうしても日本人はこうした時、悪い展開、メンドクサイ展開になることを予想しがちです。

数日後、封筒が届き開けてみると...
おや〜ん?
「人材資源省のサービスについてのアンケート」だったのです。
つまり、「最近の私共のサービスについてユーザー側としてご意見承りたく」という内容だったのです。

項目は細かく分かれ、就労ビザ取得について、紹介業の申請から認可までのプロセスについて、各種の規約変更について、「情報提供は充分であったか?」「窓口での対応は?」「パンフレット等は理解しやすかったか?」。

そして、「3年前と比べて今はどうか?」。
全て5段階評価で査定できるようになっていました。

クライアント企業の社長が来日された際、「シンガポール政府というのは、国に貢献してくれる企業に対しては May I help you ? という姿勢なんだよね」と仰っていたことを思い出しました。

公務員のことを英語でCivil Servant と表現します。訳して「公共の使用人」。
なるほどね...
資源もなにも無かったこの国が30余年の間に経済大国に成長したのは、ひとえに外資を積極誘致したせいだと聞きます。

既にシステムが出来上がった今でも、May I help you ? の精神を忘れない国。
そしてフィードバックしたコメントは何らかの形で結果に反映される可能性が極めて高い国。

育て甲斐がある、なんて言ったら不遜ですが、そう感じられるのがシンガポール政府なのです。

それにしてもアンケートは長かった...

10年前の海外就職

2cda8c94.JPG振り返ってみると私が海外就職を思い立った10年前、そのハードルはかなり高かったと思います。これは要求される人材能力としてのハードルが高い云々ではなく、単純に「情報がないっ!」というハードルの高さでした。

それまでもシンガポールへは出張や旅行で何度も出かけてはいましたが、「滞在する」ことと「働き、暮らす」ことの違いは当然大きいわけです。社会システム、生活環境、税制。。。そしてなによりも、自分がシンガポールという国で市場価値を持つ人材であるかどうか。つまりは「やっていけるのか?食っていけるのか?」という不安です。

当時はインターネットなど普及していなかったし、メールも社内で限定的に使用される程度のIT環境でした。

求人情報すら満足に得られない中、日本シンガポール協会、アジア経済研究所、都内の公立図書館に何度となく足を運び、ついには日本橋の書店「丸善」で1部千円以上も出してシンガポールの現地新聞を購入。しかし、週末版に入れられる求人情報特集は別冊扱いになっており日本へは入荷されず。。。こういう空振りはいくつも経験しました。

しかし、そうした「ハードル」の高さは今のようにクリックひとつで現地情報が得られる環境にいるより、熱意と執着(?)を掻き立てるには良かったのかもしれません。今、思えばとてつもないエネルギーと行動力を生み出したと思います。

シンガポールで働くことに関心を持ったのは1996年の2月。その3ヵ月後のゴールデンウィークには履歴書10通を抱え、面接のために現地に飛んでいました。

まずは、都内のホテルのビジネスセンターからとてつもなく高い国際通信料を払って履歴書と職務経歴書を現地の人材紹介会社に送りました。テレフォンカードを何十枚も用意し、会社の昼休みに公衆電話から「仕事を紹介して下さい」という売り込み電話もかけました。

とにかくやれるだけのことはやってみよう。オファーが出れば決定権は自分が握れる。しかし、オファーにありつけなければそれすらもできずに終わってしまう。
「後悔しないために」。
その一念だったと思います。

履歴書を送った先の人材紹介会社から「何社か会いたい(というより、「会ってもいい」程度の感触でしたが)という企業が出てきましたから、面接のために一度こちらに来られますか?」という短い返事だけを頼りに飛行機に乗りました。

全てが変わったのはこの時であったと思います。
この時、「受かるかどうかもわからないし」「受かったところで現地の生活が肌に合うかどうかもわからないし」「行くだけでもお金も時間もかかるし」という戸惑いに負けていたらその後の自分はなかったと思います。

後年、人材ビジネスに入ってから再びこの思いを新たにするのですが、世の中には「踏み出せる人」と「踏み出せない人」の二通りしかいないのではないか、と。勿論、踏み出せない事情は色々とあるでしょう。しかし、同じようなチャンスは二度とは巡ってこないものです。

仮に、踏み出した後、元の場所に戻ったとしても、それは「元いた場所に戻る」のではなく、「全てを納得して元いた場所に新たな気持ちで向かえる」わけです。それは具体的行動を取らずに元の場所にとどまっていたこととは全く違うことだと思うのです。

「後悔しないために、踏み出してみる」
この言葉はその後、全てに対しての行動基準になりました。


次回からはシンガポールでの就職活動の様子を思い出しながら書いてみたいと思います。

ここから、私の本当の波乱万丈人生が始まったのかもしれませんが。。。



はじめまして

6e84e87d.jpgこのたびブログを開設することになりましたペンネーム:ランでございます。
LivedoorにID登録して、この画面にたどりつくまで2時間ぐらいかかってしまいました(汗)。
先が思いやられますが、めげずに書いてまいります。

さて、この「ラン」というペンネームは、勿論、私の愛する第二の祖国、シンガポールの国花から勝手に頂戴いたしました。

今日はシンガポールの独立記念日。
全くの偶然なのですが、私のブログも今日からスタートします。
これも何かの縁なのかな、と。

ランはこのシンガポールに暮らして早10年になります。
プロフィールを作成していて、我ながらよくもまぁ...と絶句するような波乱万丈の半生を送ってまいりました。

日本での安定した職場を辞めて、海外就職→海外リストラ→海外転職→日本へ(逆)駐在→退職→シンガポールに舞い戻り→起業!ですからね。

最初の会社でいただいた日本支社への転勤辞令をあっさり断って退職。
就労ビザが切れてからは、パスポート片手に隔週ごとに隣国マレーシアまでビザ更新にまいりました。

すっかり落ち込んでいた私にシンガポール人の友人曰く、「あのさ〜、明日、国がなくなっちゃうような人も世界には沢山いるんだよ〜」。

そ、そうだ! トム・ハンクス主演の映画「ターミナル」のような話は歴史の中にいくらでもある。おお、この大らかさ。さすがは華僑の末裔。明るく図太く生きている。

そんなシンガポールは世界に向けたアジアの玄関。
チャンギ空港の旅客数は成田を大きく引き離してアジア2位(僅差で1位は香港)だし、「生活の質・世界ランキング」では堂々のアジア1位。世界中から多くの人が働き暮らしにシンガポールにやって来る。

ランのブログでは、そんなシンガポールをひとりの生活者の目から眺めて書いていきたいと思います。

勿論、海外就職、海外生活に関する情報提供、意見交換の場としても期待していてくださいね。

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